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明治の時計塔

22. 鈴木時計店時計塔(上野広小路)

(帝都名所)上野広小路及び不忍池畔を望む

(UENO PARK)TO THE POND SHINOBAZU FROM HIROKOJI

上野広小路と不忍池を題材とした大正時代の絵葉書ですが、右奥にかろうじて上野広小路の鈴木時計店時計塔が確認できます。 手前の大きな建物は明治41年に出来た帝国博品館の2号店です。

鈴木時計店時計塔

明治30年に時計塔を据え付けた洋風土蔵造二階建ての店舗を建築。 時計塔の概観は和洋折衷様式で文字板直径六尺、毎時及び三十分の時打装置を備えていた。 機械は国産であったというが、製作者ないし製造工場名は不明。 明治後期に名物的店舗の一軒に数えられていたが、大正12年の関東大震災で焼失。

参考文献:明治・東京時計塔記、平野光雄著

鈴木時計店時計塔 拡大

明治40年前後

上野広小路 鈴木時計店時計塔

日露戦争の凱旋パレードと思われる

遠景だけで詳細が分からない写真が多いなか、時計塔がはっきり映る貴重な写真です。

鈴木時計店時計塔絵はがき

神田、上方屋製
明治30年代末頃

上野広小路を先の絵葉書と反対方向から眺めた絵葉書です。 中央奥右にひときわ高くそびえる鈴木時計店の時計塔が目立ちます。 まだ先に上野広小路帝国博品館の建物も見えず、市電が走っていますので明治40年前後の時代でしょう。 高いビルが出来るまでは時計塔は遠くからも目立つ存在で格好の道しるべ目標(ランドマーク)で有ったことが良くわかる絵ですね。

(東京名所)上野広小路

実逓 明治41年9月4日の消印

東京名所 「上野広小路之全景」

55x39.5cm、明治42年3月5日印刷
東京市日本橋区馬喰町二丁目十四番地 網島亀吉
《 個人蔵 》

鮮やかな錦絵。通り右中央に和洋折衷様式の時計塔があり、その大きさは際立っています。

大正(震災前)

(帝都名所)上野広小路より上野公園を望む

上野広小路を中心に俯瞰した絵葉書で、上野公園と不忍池や広小路鈴木時計店との位置関係がよくわかります。 大正6年にルネッサンス様式の地上7階建ての上野松阪屋が竣工していますので、そこの望楼からの撮影でしょう。 大正12年の関東大震災で松阪屋と共に鈴木時計店も焼失していますので、大正6〜12年の間の風景です。

上野広小路(東京)

Ueno Broadway, From Northwest, Tokyo

中央右側の3本の尖塔の真ん中が上野広小路鈴木時計店の時計塔の鐘塔です。 左のビルが大正6年に竣工し、12年の関東大震災で焼失した上野松坂屋です。

上野広小路松坂屋呉服店

屋上望楼が上野公園、鈴木時計店の方へ向いています。

昭和初期

上野広小路より松坂屋を望む(新東京名所)

Matsuzakaya Dep. From Ueno Hirokoji
上野広小路に王者の如く君臨する松坂屋の鉅観

上野広小路は、品川から銀座、日本橋を経て大東京を縦貫する大幹線道路にして、江戸の昔から四季雑沓を極めたる繁華な通りです。 此所には江戸時代から栄えた呉服店いとう松阪が、昭和4年堂々十層楼の大建築をして王者の如く其鉅館を現したので一段と光彩を添えました。 舊館は上野彰義隊の戦争に官軍の大村益次郎が軍議を凝らしたという由緒が有ります。

鈴木時計店時計塔は関東大震災で焼失して、昭和元年に竣工し上野松坂屋同様再建されたもので(正面に見えるのが松阪屋新館)、 右手前二面の文字板が見える茶色のビルが鈴木時計店新館、その後昭和25年に第一銀行上野支店となった。 建築設計吉田亨二工博、施行竹中工務店、時計機械、阿部式電気時計六面文字板、一面直径約3尺5寸である。 その奥の白亜のビルの野村時計店の時計塔については詳細不明。

東京上野 鈴木時計店

新築記念絵葉書 昭和元年

関東大震災後の復興新築の鈴木時計店の全貌、六面の時計塔の構造もよくわかる。

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