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明治の時計塔

5. 湊家(みなとや)牛店時計塔

湊家本店 引札

引札 湊家

東両国元町一番地 大越伊兵衛
銅版 17×17cm、明治20年代(推定)
《 個人蔵 》

湊家牛店時計塔

「東両国の湊家(本店)は寛政年間の創業であるが、二代目大越伊兵衛の時代、明治初年になって、両国橋東詰(元町)に土地を求め、 土蔵造二階建一部三階建の店舗を新築した。 大川にせっする背後の蔵を含み、延八十坪をこす堂々たる表構えで・・・(中略)
この二代目伊兵衛は、派手ごのみで進取の気性に富んでいたとみえ、「文明開化」期を迎えると、いち早く明治八年頃、 牛店を兼業するとともに自店の造作をそれにふさわしく洋風に改造している。・・・(中略)
店舗屋上には、その頃の商舗にとって、もっとも斬新な看板となった、和洋折衷様式の時計塔を建設した。」

「明治東京時計塔記」平野光雄著 より引用
(昭和43年6月10日発行、明啓社刊 - 改訂増補1000部限定)

文明開化期の牛鍋が流行し始めた頃、競って牛肉店の経営に乗り出した湊家の店舗(湊家牛店)に看板的役割として設置されたとされる時計塔は、 時計塔の初期のものとして興味深いものです。 「明治東京時計塔記」では、店舗の姿が明らかになっておらず、また発見される錦絵にも小さく描かれている程度で詳細は不明なままでした。

このたび、ここに掲載の湊屋本店の引札そのものが偶然に見つかり、その姿が明確になりました。 店舗概観については、言い伝えの通りと云えます。 しかし、時計塔とされるものには時計が確認できず、その形状は単なる望楼のようにも見えます。 残念ながら時計塔としての確認は、この引札からもできません。 以下の錦絵でも時計の文字板は確認できず、ほんとうに時計塔であったのか、その時計はどのような機械であったのかは、謎のままです。 もしかしたら、この引札にある望楼に簡易的に時計を取り付けただけの時計塔だったのかも知れません。

両国花火之三曲 明治25年

「両国花火之三曲」 錦絵

楊斎 延一 明治二十五年印刷 仝年仝月
出版 印刷並ニ発行人 日本バシ本銀丁二丁目十二バンチ
式川 卯之吉
《 個人蔵 》

両国の花火を題材にした錦絵ですが、、大川(墨田川)の対岸に小さいながらも鮮明に湊家牛店の時計塔が描かれています。

版画の作者の延一は、 三代広重とともに明治時代の風俗を良く残した歌川(楊斎)周延の門下生(明治5年(1872)〜昭和19年(1944))です。

湊家牛店の時計塔(拡大)

時計は確認できず・・・

東京両国通運会社 川蒸汽往復盛栄真景之図

川蒸汽往復盛栄真景之図(写真複写版)

作者記載なし、「清重」か?
制作期日も?年一月
画工:浅草八幡丁十五番地 野澤 定吉
発行人:浅草並木丁一番地 三浦 武明

明治10年5月、内国通運会社は深川扇橋から栃木県の生井村を結ぶ航路を開いた。この時使われたのが『通運丸』である。 明治15年(1882)に内国通運株式会社と銚子汽船会社が一緒になり、両国通運株式会社となった。 両国から新川を経て江戸川を上り、銚子に行く航路ができ通運丸が運行された。 この航路は東京から浦安や行徳に向かう足として利用された。

絵で分かる通り、既に「日通」の旗が靡いています。 また対岸には、湊家牛店の時計塔が描かれています。(ん〜、これも小さい・・・)
絵の左端にはレンガ造りの建物が僅かに描かれています。 これは、明治5年に開局した電信局です。当初は伝信局と表記されました。 つまり、信号を伝えるの意です。 開局当時は、洗濯物を掛けたり、手紙が伝わって行くと思い、眺める人とか大騒ぎだったそうです。 当時は電力は自家発電でしたので、電力を配給する電線は明治23年以降となります。「電信柱」は面白い名残です。

湊家牛店の時計塔

両国の地図

この地図で、電信局と両国橋と湊家牛店の位置関係が確認できます。

両国橋の生い立ち 〜江戸初期の江戸城外堀と「振袖火事」〜

江戸の初期には、江戸城の守りとして、東に隅田川、北に神田川、これに続く掘割と、溜池から築地川という外堀を築いていました。 隅田川には千住大橋より下流には橋を掛けさせませんでした。

ところが1657年(明暦3年)に「振袖火事」が起こります。 1月18と19日に三箇所(下地図の赤丸印)で火の手が上がり、江戸城本丸を含めて外堀の内側はほぼ焼失したそうです。 約80日間、雨が降らず北西の季節風が強かったのが大火に至った原因とされます。 この時に人々は外堀の外に逃げようとしたのですが、神田川の一番東にあった浅草門が開かず、 ここで2万5千人が犠牲になりました。 鎮火後に船で遺体を対岸に運んで埋葬し、そこに供養のために建てられたのが回向院です。

この反省から、幕府は隅田川に橋を掛けることを許可しました。 また、外堀の内側は手狭になっていたので、大名屋敷を外堀の外側に移転させました。 両国橋は「武蔵」と「下総」を結ぶ橋の意です。

両国橋は何度も流され、明治8年に最後の木橋が掛けられ、明治37年に鋼橋となり、場所も上流側に移動(現在と同じ)しています。 明治37年は、湊家に雷が落ちた年であり、塔屋は残ったものの、時計は外されました。 対岸に湊家牛店の時計塔を見つけるためのポイントは木橋でしょうか!

江戸城 城郭

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