12. 州崎遊郭
東京名所 州崎遊郭之遠望 明治三十五年
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浜風に涼むお姉さんと、満月に浮かび上がる二つの時計塔!
東京名所と題された、当時観光土産代りに人気の有った明治石版画です。
塔時計は、特に時計店の看板として注目されていましたが、もう一つの花形は、当時の社交場として賑わった遊郭でした。 新しい情報が集散し、財力があり、時間管理に関心の高い遊郭に、西洋の正確な時計が導入されたのは極当然の事だったのでしょう。 岩亀楼に続いて明治17年には東京の新吉原遊郭の角海老楼、 そして明冶22年の州崎遊郭の八幡楼に設置された時計塔は市中の名物的存在でした。
州崎遊郭は明治5年頃、新吉原遊郭と共に東京市内に許された三つの遊郭の一つの本郷根津遊郭を移転したもので、その開始は明治21年です。
その中で第一の大楼であった八幡楼は建築及び庭園の雄大さをもって鳴り、その点では市中の妓楼中、右に出るものは無かったといわれ、
その名物的名声と共に櫓時計型時計塔も市中に知れ渡っていました。
機械はファブルの輸入した外国製とおもわれ、文字板径5尺、時打付、その音はややかん高かったといいます。
夜間は文字板周囲に灯火を灯したから灯台代わりの目標にも成りました。
しかし、大正3年頃漏電に起因する火災で25年にも長きにわたって親しまれてきた時計塔は焼失してしまいました。
右手海岸端に見えるのが八幡楼時計塔であり、左手に見えるのが甲子楼時計塔です。 この甲子楼時計塔は明治35,6年以前に暴風雨で倒壊したため新甲子楼時計塔が作られています。その新旧どちらかは不明ですが、 平野光雄さんの時計塔記には詳細不明となっていますし、図版も未載のものですので資料的にも大変珍しいと思います。 このように至近距離に大きな時計塔が二つ見える光景も壮観で類例を見ません。
八幡楼時計塔
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鶏卵紙という古いタイプの印画紙に焼かれた生写真です。 写真が古いタイプの生写真である事と東京時計塔記の写真と比べると表の植栽が少しさびいので、 時代は出来て間もなくの頃、明治20年代ではないかと思います。
甲子楼時計塔
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新発見かも知れない甲子楼(きのえねろう)の貴重な写真です。 「隅田川東岸の物語」を書いた永井荷風の小説『ぼく東綺譚』(ぼくとうきだん)に次のようにでてきます。
「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨やつなみのことを写さないのはずさんの甚はだしいものだ。 作者先生のお通いなすった甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなかろう。」
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なんと、もう一枚発見されました。 下にほぼ同じ構図の錦絵がありますので、それと比較してみてください。 甲子楼はありますが、事務所兼病棟は写っていません。 明治21年に洲崎の埋め立てを行い根津から遊郭を移転させたのが明治22年春頃ではないかと考えられています。 樹木の大きさも下の明治24年の錦絵とだいたい同じですので、 明治23年ころのできたばかりの甲子楼ではないかと推測します。
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左の塔屋は、事務所兼病院棟、甲子楼の時計塔はお姉さんの後方にあたります。 鶏卵紙写真と比較すると時計塔が精密に描写されていることがわかります。
参考文献
- 明治東京時計塔記(平野光雄著)
昭和43年6月10日明啓社発行1000部限定 - 町に生きる時計たち(上巻―東京編、上野秀恒著)
クロック文化研究所発行 1995年10月10日
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