13. 東京府庁時計塔
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明治元年(1886年)5月江戸は江戸府となり、7月には東京府(とうけい)と改称され、翌8月大和郡山藩上屋敷を接収して東京府庁が開庁した。 明治4年には廃藩置県により東京府は京都府、大阪府と共に三府(首都あるいはその代替地)の一つとされた。 明治22年に東京府内15区を東京府から分立して市制を施行し東京市とした。
同年にようやく新府庁舎の新築が始まり、27年麹町区有楽二丁目一番地(高知藩主山内土佐守屋敷跡)にフランス近世ルネッサンス様式の 二階建て煉瓦館の出現を見た。 設計者は妻木頼黄工学博士で欧州各国の市庁舎を実査研究の後の苦心の設計になる代表的な明治官庁建築の一つで有る。
世界屈指の大都会として誇る東京市の、総元締としては些か貧弱な建物ですが、明治二十年代の西洋館が、 モダン東京の中心ともいふべき丸の内に、古色蒼然として聳え立っているのは、ちょっと微苦笑ものです。 而も東京府庁との寄合世帯なのです。 何れ大東京都の実現と共に、新庁舎が堂々と生れ変る予定ださうであります。 (絵葉書の説明)
ローマ数字一面文字板の洋風時計
府庁舎の正面玄関の背後屋上には、ローマ数字一面文字板の洋風時計が設置された。 文字板直径約四尺、時打ち装置を持たず比較的シンプルな機構のものだったという。 機械は八官町の小林時計店で納入しているのでファブルブランント商館輸入の外国製(多分フランス製?)であろう。 外観は参謀本部や江戸橋郵便局と類似した置時計型につくられ、背後の香炉型高塔(東京タワー見たい?)とともに、 煉瓦建築の寂びた朱色の肌に、よく調和していたそうである。
明治大正の二代にわたって活躍した時計もその後営繕部の都合によって大正11年頃機械は取り外され国産電機時計に改められてしまった。 建物は昭和20年の戦火でおしくも焼失した。
参考文献 「明治・東京時計塔記」平野光雄著
(昭和43年6月10日発行、明啓社刊 - 改訂増補1000部限定)
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