2. 竹橋陣営時計塔
竹橋陣営時計塔
東京における時計塔の中で最も古く、かつ長く存続したのが、現在は北の丸公園となっている場所にあった近衛
時計塔の機械はフランス製四点チャイム打で、大きさはミシン大、地金の材質は砲金、ガンギ車と風切りの変わった形が珍しく、指針は棒剣、 直径約五尺の表時盤に比して、八角形の外枠の部分は非常に大きく、八本の柱によって銅版葺きのドームを支えていた。 そして時打の鐘には1872年(明治5年)の年号が刻まれ、その音響はややカン高かった。
参考文献 「時計のロマンス」平野光雄著
(昭和32年12月1日発行、株式会社堀田時計店 再建満十周年記念出版)
この賀状(明治44年)は全体の配置と時計塔の位置が良く分かる。 井上 安治の「竹橋内」とは、四角い陣営と時計塔を描いたもので、その前面にある建物は省略したか建てられていなかったと思われる。 下辺の中央の銅像は「故北白川宮殿下銅像」とあり、北白川宮能久親王である。経歴は、1870 年(明治3年)にドイツに留学。 1872 年に北白川宮を相続し、1877年(明治10年)に帰国した。 帰国後は陸軍に勤務。 陸軍中将にまで進む。 日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、1895年(明治28年)、現地で戦病死した。 享年49。井上安治が描いた時は、この銅像は存在しなかった。
赤丸が時計塔の位置で、前の二つの建物が「近衛歩兵第一指令」であることが分かる。
絵葉書
これらの建物は戦火を免れたが、1946 年(昭和21 年)に東京特別都市計画によって皇居周辺の緑地として整備されることが決定され、 昭和30 年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去。 1963 年(昭和38 年)に建設省が森林公園として整備を開始し、1969 年(昭和44 年)に昭和天皇の還暦を記念して開園、一般公開され、 現在では「北の丸公園」となっている。 明治43 年に建設された近衛師団司令部庁舎(年賀状にある左手前の建物の位置に再建された?)が、国立近代美術館・工芸館として現存する。
井上 安治
井上 安治の師である小林清親は英人画家ワグナーに師事し、従来の浮世絵が遠近法に時として破綻が見えたのに対して、 正確な遠近法と光の陰影を取り入れた西洋画的な浮世絵を制作し、井上安治とともに「光線画」と呼ばれ、 浮世絵画壇の「風雲児」として人気を博した。 井上安治は風俗画に転向してからは「探景」と画号を変えたが、25 歳にして夭折している。本名は「安治郎」で、「安二」等の落款もある。
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