14. 吉沼時計店時計塔
三階建煉瓦造新館 時計塔(日本橋兜町)
明治26年に建築された当時の吉沼時計店を大型銅版で描いた傑作図です。 これだけ大きく正確な銅版時計塔図は珍しく、明治中期の洋風建築図としても貴重な記録図版です。
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明治16年東京日本橋兜町に時計店を開業した吉沼又右衛門は順調に業績を伸ばし、 明治26年旧兜町店を取り壊し屋上に巨大な時計塔を設置した斬新な三階建煉瓦造新館を建築した。
擬宝珠型の屋根を持つ鐘塔を備えた純洋風時計塔で、建物も延坪わずか43坪にすぎないから、けっして大建築ではないが、 西洋の大伽藍(だいがらん)を連想させる高塔式で比較的装飾の多いその意匠は、 海運橋界隈において、第一国立銀行と並んで異彩を放つ人目を奪った建物であった。
時計塔は鐘塔が示すように時打ち装置を持った商館輸入の海外製機械と思われ、文字板は9尺余で文字板の周りに電燈による照明の仕掛けがあった。
吉沼はその後、業務の拡張をはかり、日本橋区通二丁目に店舗落成とともに31年秋、移転した。 この兜町の店舗は33年に住友銀行東京支店に譲渡、さらに大正7年ころ山一証券に譲渡され大正12年9月1日の関東大震災で焼失した。
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※1 日本博覧図
明治21年(1888)〜明治30年(1897)の間に計21編発行された「日本博覧図」は 明治中期の関東を中心とした地域(東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、静岡)の名勝旧跡、寺社、農商家邸宅、庭園、会社、工場、学校などを図版で紹介した銅版画集でした。 当時流行し始めた各地の商工便覧や個人肖像録の様な性格を持った刊行物で、掲載希望者を募り注文を受けた人を掲載するという(有料掲載)やり方を取っていました。 細密な銅版画で俯瞰的に建物や周囲を含めて丁寧に描かれた、明治の農商工業や風俗、景観などを知り得る貴重な歴史資料として評価の高いものです。 日本の商業銅版図として最盛期のもので、国内の銅版画職人の技術の高さを窺い知ることの出来る完成度の高い銅版画集です。 編集発行は初め石原徳太郎が著作兼印刷兼発行人で、日本博覧絵出版所、精工組、精行舎が予約を集めていましたが、 その後編集者は青山豊太郎、発行者は精行舎で最後まで続いています。
本店時計塔(日本橋通二丁目へ移転後)
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明治31年10月10日付 吉沼時計店本店が日本橋通二丁目に煉瓦造りの三階建新館の落成した際に披露案内のために配った絵ハガキです。 時計塔は兜町の店舗のものよりやや大きく見え、装飾はいっそう派手になっています。
※2 「生巧館」木口木版画絵葉書
絵葉書の右下に生巧館刀とサインが有ります。 これはこの図の印刷工房のサインで生巧館が彫上げた木版画であることが知れます。 ハガキサイズの小さな画面に銅版画と見間違えるほどの精密な木版画です。 当時はまだ写真製版が出来ない時代で、写真の代わりに写真木版と呼ばれた木口木版で版画を彫り、写真の代用印刷とされていたのです。
木口木版とは錦絵などの日本の板目に彫る木版と違い西洋で普及していた木の切り口(木口)、 それも硬い柘植の木口を使った精密な細かい彫が特徴の木版で日本にはそれまで無かった為、西洋木版とも呼ばれています。 この木口木版を日本で広めた人は合田清という人で、明治13年に18歳で木口木版の本場パリに渡り、当時の名匠に就いて修行して同20年に帰国、 殆ど前後して帰国した山本芳翠とともに明治21年3月芝区桜田本郷町に生巧館を(山本は洋画部を合田は木口木版彫刻部として)創業しました。 当時新聞の写真木版として活躍していた島崎天民一派も生巧館に入門して、文字どうり木口木版の大本山となって発展しました。 新聞、雑誌、本の挿絵や付録の絵画、ラベルからこのようなハガキの印刷まで木口木版は普及しましたが、 やがて写真製版をはじめとした印刷技術の進歩により明治後期に商業印刷としての使命を終えていきます。 日本の板目木版がやがて錦絵などの芸術分野に継承されていったように、木口木版も現在、版画芸術の世界で大きな一ジャンルとして発展しています。
参考文献:「木口木版伝来と余談」馬淵録太郎著(私家版)
中央公論事業出版製作、ギャラリー吾八発売、
昭和60年3月2日刊
本店時計塔(京橋へ移転後)
明治36年3月の第五回内国勧業博覧会記念の販売割引券の石版図。 時計塔は、小林時計店京橋支店を譲り受け、そのあとに移転した本店と考えられます。
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