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明治の時計塔

26. 早稲田大学大隈講堂 時計塔

(大東京) 牛込 早稲田大学

Waseda college, Tokyo.
昭和初期

大隈講堂は早稲田大学キャンパスに有る講堂で大隈重信像と並び早稲田大学を象徴する建物である。 大正11年(1922年)大隈が没すると間もなく大隈重信を記念する事業が計画され、彼の悲願であった大講堂を建設する事になった。 建設に当たって当時の総長の高田早苗の注文は「ゴシック様式」と「演劇に使える」であった。 当時としては画期的な建物で早稲田大学建築学科の創設者佐藤功一監修、佐藤武夫設計で、 関東大震災で延期になりながら昭和2年10月20日開館式典が行われ落成した。

大講堂は地上3階建ての総座席1435席、小講堂は地下一階の382席(その後2007年に改修) 正面には7階規模の時計塔を持ち高さ125尺(約38メートル)は大隈が生前に唱えていた「人生125歳説」にちなんでいる。 講堂の天井の採光窓には太陽と月と九つの星をあしらった太陽系を表し、講堂の内と外との「世界の融和」を象徴している。

時計の文字板は2m、愛知時計製機械の四面文字板、直流式親子電気時計で、 チャイムは米国、ボルチモア市、マクレシェン社からはるばるパナマ運河を越えて運ばれた。 (その後機械が変わったかは不明)
時打ちは大小四つの鐘でウエストミンスターチャイムをハーモニーさせる方法は日本初であった。

1999年4月東京の歴史文化を象徴する建物を守る目的で都景観条例に基ずき「東京都歴史的建造物」第1号に旧図書館と共に選定されている。 2007年には創立125周年を記念して全面的な改修工事が行われ、国の重要文化財に指定された。

Waseda University (早稲田大学)故大隈侯記念講堂

早稲田大学と大隈重信

早稲田大学の創設者、大隈重信は天保9年(1838年)佐賀鍋島藩の藩士の長男として生まれ、幼少より藩校で漢学を学び、 のちに蘭学を修め、脱藩して維新の大政奉還運動に加わった。 維新後は新政府に登用され、外交、財政を担当し開化政策を推し進めた。 明治14年(1881)薩摩・長州閥との対立から下野し、立憲改進党や進歩党を結成し、政党政治に邁進する。 明治31年には板垣退助と憲政党を結成し、日本最初の政党内閣、隈板(わいばん)内閣(第一次大隈内閣)を成立。 しかし内部の対立が激しく、内閣は崩壊。 大正3年(1914)には立憲同志会を与党として第二次大隈内閣を組織し、大正5年辞職。

その後、大隈重信は、「学問の独立」を標榜して明治14年(1881)に早稲田大学の前身、「東京専門学校」を開校。 学校創設には、立憲改進党の同士である小野梓と彼を取り巻く高田早苗・天野為之・市島謙吉、坪内逍遥ら、大隈の理想に共鳴した若者たちが中心となって動いた。 東京専門学校は、創設から二十周年を迎えた明治35年(1902)に「早稲田大學」と改称され、大隈は、明治40年、総長に就任する。 政治家としてだけでなく、近代日本の「教育者」としても大きな役割を果たした。 大正11年(1922)に83歳で没し、葬儀は国民葬として行なわれた。

戦前の卒業記念品の角帽形文鎮

幅 7.7cm

戦前の卒業記念品の角帽形文鎮です。 大隈講堂が描かれています。 「文鎮に添へて」という栞(しおり)が付いています。

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