8. 京屋時計店本店時計塔(御成道時計台)
明治錦絵「東京名所 御成道時計台」
御成道時計台と銘打たれたこの時計は、 水野伊和造が明治6年頃に開業した旅籠町の時計舗「京屋時計店本店」の四方塔時計です。 時計は明治8年に土蔵造二階建ての本店屋上に設置されたとされ、機械はファブル・ブラント製と伝わっています。
この時計は、東京市民に「外神田の大時計」とも呼ばれ、東京名物に数えられて上野駅に下りる旅客にとって格好の目標となっていました。 遠景には上野のお山があり、手前の道路には明治15年に開通した鉄道馬車が走っています。
水野伊和造は、刀匠から時計商に転じた人で、その師は日本橋本石町に住まい、 名人芸と謳われた江戸時計師山本勘右衛門であったと言われています。
写真絵葉書
貴重な京屋時計店本店の写真。 「御成道」と同じアングルですが、「御成道」の時代には、馬車鉄道は京屋の所でクランクしていましたが、 その後に万世橋の下流に鉄道専用橋が架けられ、真っ直ぐになりました。
背景に描かれた時計塔
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ドクトル川上は、アメリカ帰りのキリスト教系のドクトルで、のちに医学教育のための医学図書館の設立に尽力しました。 絵の看板には外科手術院、眼科診療所となっています。 玄関には人力車や三輪車?遠景には明治24年に竣工したニコライ堂に鉄道馬車と尖がり帽子の時計塔が見えます。 場所からして外神田の大時計 - 京屋時計店時計塔と思われます。その奥は上野東照宮の鳥居と清水堂か?
京屋時計店本店時計塔の位置
店舗屋上へファブル輸入の四方塔時計が設置された時期は、
本店(旅籠町)と支店(銀座四丁目)ともに明治6年頃8月頃とされています。
本店(旅籠町)の住所は外神田旅籠町一丁目十三番地であり、
「明治9年の明治東京全図」および安政三年の「神田旅籠町界隈」から、場所が特定できます。 (下図の赤丸印)
「御成道」と中山道に面し、前が「広小路」という一等地です。
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萬世橋界隈
萬世橋界隈は江戸時代から交通と経済の要地であった。 江戸城の外堀に掛かる橋として筋違橋と昌平橋があった。
昌平橋は、寛永年間(1624年〜1644年)に架橋されたと伝えられており、 1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで昌平橋と改名した。 明治維新後に相生橋と改められたが、1873 年(明治6 年)に洪水により落橋。 再建されたのは1896年(明治29年)である。
萬世橋は、1676年(寛文16年)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。 この橋は、徳川家将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、南にある筋違見附の付属物であった。「御成橋」とも呼ばれた。 1872年(明治5年)筋違見附を取り壊し、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、 筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋を完成し、当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、 同じ音読みで萬代橋の記録もある。 次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。 水面に写った影と併せて眼鏡橋とも呼ばれた。日本初の石橋とされる。 1903年(明治36年)、現在の位置に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋の方は、 1906年(明治39年)に撤去された。 萬世橋の元の名である、「筋違」とは、中仙道(図中緑線)と将軍が上野の寛永寺(徳川家の菩提寺)と家康、 吉宗、慶喜を祀った東照宮にお参りする際の道:「御成道(図中赤線)」が斜め交錯することに由来する (正確には、後日に御成道と呼ばれた道)。 この橋は筋違見付の一部で、一般人は昌平橋を渡った。
江戸時代の学問の中心地であった湯島聖堂は「徳川色」を払拭するために、東京「書籍館」となり、地図上から姿を消した。 この地で1872年(明治5年)に文部省博物局により我国最初の博覧会が開催され、これが日本の博物館の始まりとなった。 昌平橋が「相生橋」に改名されたのも同様の理由による。
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