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明治の時計塔

17. 帝国東京大学医学部時計塔

帝国大学医学部時計塔

鶏卵紙写真
新潟市文化財 旧小澤家住宅 提供
新潟市文化財旧小澤家ホームページ

明治9年建設の医学部時計塔は、同じ年に設置された外神田(京屋時計店)や八官町(小林時計店)の大時計と比較すれば、 やや小型ではあったけれども、端正な御輿型の様式が、当時時計塔の模範とされたらしく、京屋小林の時計塔とともに世上に宣伝されていた。

時計塔および建物の設計者は、日本工学会編「明治工業史」建築編(昭和2年刊)によると、林忠恕、施工は西郷某であるが、 機械は横浜の時計貿易商館ファブル・ブラントの手を通じて輸入されたイギリス製?であった。 上野の「時の鐘」と相応じて時刻を報じ、その音色は、きわめてうるわしく、不忍池にのぞむ無縁坂あたりまで鳴り響いたという。

参考文献 「明治東京時計塔記」平野光雄著

題名不祥(三枚続きの内の一枚と思われる)

三代広重画 御届 明治九年十一月十四日
中橋大鋸町四番地 安藤 徳兵衛 版元 南伝馬町一丁め二番地
林 吉蔵
《 個人蔵 》

この絵は「上野精養軒」から不忍池の弁天島、遠くに明治9年に建設された東京大学医学部時計塔(病院時計塔とある)を描いたものです。 恐らく三枚続きの一部ですが、「名称」は不明です。 この時計塔の機械は、横浜の時計貿易商館ファブル・ブラントが輸入したもので、 その鐘の音は不忍池にのぞむ無縁坂下あたりまで鳴り響いたとのことです。

参考文献 「明治東京時計塔記」平野光雄著

開花三十六会席 上野西洋軒 明治11年

開花三十六会席 上野西洋軒

豊原国周筆 明治十一年二月
須田丁四バンチ武川清吉板上野丁十二バンチ
荒川八十八画 彫銀
《 個人蔵 》

こちらは、広重の作ではありませんが、上野精養軒のガーデンスタイルのレストランを描いたもので、広重画とほぼ同じ構図の錦絵です。 椅子がテーブルの上に上げたままなのが面白い。 背景の中には小さいながら医学部時計塔が描かれています。 芸者さんの顔前方に「若松濱吉」とあるのは源氏名と思われます。

精養軒は1872 年(明治5 年)に東京府築地に「西洋館ホテル」として創業。 1873 年(明治6 年)「精養軒ホテル」と改称し、 1876 年(明治9 年)に上野精養軒が開業しました。

周辺位置図

明治9 年の「明治東京全図」

名称は「西洋軒」のまま

蛇足ですが、この地図は森鴎外の「雁」の舞台そのままです。 主人公の岡田は鉄門の前に下宿していました。以下は引用。

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、 上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、 陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。」

無縁坂の中途に岡田を見染めた「お玉」が住んでいました。 また、この坂は、さだまさしが1975年11月にリリースしヒットしたフォークソングの「無縁坂」でもあります。 「鉄門」は東大医学部の「代名詞」です。

不忍池(しのばずのいけ)競馬之景 明治18年

東京名所之内 不忍池競馬之画

御届 明治18年、作者;楳樹 邦年
《 個人蔵 》

明治17(1884)年に、共同競馬会社が上野の不忍池(しのばずのいけ)に新設した競馬場の錦絵です。 競馬場の建設に伴って、池の一部が埋め立てられ、この形になったとか。
新設の年の秋には第1回の競走が開催され、明治天皇がご臨席されたそうです。 「天皇賞」のルーツと言う人もいるようですが、中央競馬会は「賞」が出された帝室御賞典(1905)を始まりとしています。 上野では明治25年まで春と秋に開催されたそうです。

背景の書き込みは、右から、

左のほうにある時計塔は、東大医学部の時計塔と思われます。

東大医学部の時計塔か?

日本橋通三丁目六番地
画工兼出版人 児玉 又七

歌川 広重 三代の系譜

日本の特に東京の町並みは、鎖国が続き日本古来の建築様式を永らく保ち続けたが、明治維新により、怒涛の如く西洋化が進んだ。 また、人口の集中も進み、耐火構造の必要性がこれに拍車をかけた。 この激動した時代にその風物を余すことなく後世に伝えたのが広重三代と考えられる。

初代広重は、「名所江戸百景」で広く江戸の風景を描いており、古来の江戸の最後の姿を残した功績は測り知れないものがある。

二代広重は、「名所江戸百景」を補完し、優れた版画を残した後、離縁して安藤家を出て横浜の風物を描いた。 離縁が基と言う皮肉な結果ではあるが、開国の先端を走る横浜の記録を残したことは貴重である。 なお、二代広重の落款は初代に非常に良く似ていて判別が困難とも言われている。明治2 年に他界している。

三代広重は正に文明開化の明治を描いている。写真等が発達していなかった時代の記録として貴重である。 なお、「三代」とは以上の経緯から呼ばれるが、本人は終生「二代」を名乗ったそうである。 このことが原因かどうかは不明であるが、明治時代の広重画を「二代広重」の作と称していることがある。

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