1. 角形置時計あれこれ
角形置時計は、機械の種類がオルゴール、目覚、時打、両打(目覚と時打が両方ある)の四種類あります。
一般的なニッケルケース(金属枠)の場合は、オルゴール付の場合は底に木の蓋がしてあります。
ベルのもの(目覚か時打付き、あるいは両打)は、この蓋がなくベルが見えますのでゼンマイを巻かなくても見分けられます。
値段は、昭和初期の頃で、以下のようでオルゴールは高価でした。
- 目覚まし(No.906 Alarm) 3円70銭
- 時打(No.907 Strike) 4円10銭
- オルゴール(No.908 Alarm Music) 5円80銭
2. 角形オルゴール Alarm Music 【精工舎】
No.908 並硝子入
メーカー | 製造年代 | 大きさ | 仕様・備考 |
---|---|---|---|
精工舎 SEIKOSHA |
明治35年〜大正12年頃 |
高 五寸 巾 四寸三分 |
毎日巻き、 オルゴール付(曲譜 : 鉄道唱歌) 真鍮蓋ニッケルメッキ側 |
角形置時計は精工舎の記録によると明治35年製造開始となっています。
このスタイルの角形置時計は製造開始から大正12年大震災までの間製造されていました。
曲は「鉄道唱歌」、木製の底板にはラベルが残っていました。
底板を外すと小型のシリンダーオルゴールがでてきますが、
たいへん興味深いことに、オルゴールに製造メーカーを示す刻印が見つかりました。
櫛歯に☆とその中に○の刻印、台の部分にも盾のマークとその中にM,Fや18,40等の文字があり、
このマークはスイス、サンクロアのシリンダーオルゴールの一流メーカー
MERMOD FRERESです。
精工舎がメルモードにムーブを直接発注していたのか、あるいはユンハンスのようなドイツメーカーが日本向けの角オルゴール用に
注文したオルゴールムーブが国産の角オルゴールにも使われるようになったのか、興味深いところです。
木製の底板を外した状態 |
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オルゴール曲譜の種類
鉄道唱歌、兎ト亀、蛍ノ光、梅ヶ枝、一ツトヤ、桃太郎、四季ノ歌、陸軍、海軍、君ヶ代、 ラッパブシ
角オル一箱ノ荷造ハ前記ノ曲譜各種取合セニテ一打入
大正2年7月精工舎カタログより
大正9年の精工舎輸出用カタログより
国内版には存在していない「No.911 Time Music」が興味深いです。
国税調査記念
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オルゴールはカタログ掲載品以外も存在します。 この時計はオルゴールが国勢調査の曲になっていて、時計の正面には「記念 国勢調査」とこの時計を納めた時計店のプレートがあります。 1920年に行われた第一回の国勢調査員に対しては、様々な記念品が贈られました。 その時のものと思います。
No.953 面取厚硝子入
こちらは、大正12年大震災の後の物でこの手の時計としては後期のものになります。 前面が面取ガラスで、精工舎掛時計・置時計カタログには「No.953 角型オルゴール 面取厚硝子入」と紹介されています。 文字板はブリキ板に紙をのせたもので、ちょっと華やかさに欠けます。 曲は「天然の美」です。
オルゴールについて
明治、大正、昭和初期のオルゴールはすべてスイス製
オルゴールの国産第一号は東京オルゴール株式会社(後の東京ピジョン)が昭和23年12月24日に完成させました。
それ以前の、明治、大正、昭和初期のオルゴールはすべてスイス製です。
国産の時計のオルゴールのムーブメントはすべてスイスに和曲の楽譜を送りスイスで製造していました。
明治40年代の精工舎のカタログでは「譜は流行を追い新調子を選ぶ」と言う言葉があります。
当時流行にあわせて和曲の楽譜をスイスへ送り、スイスで「蛍の光」「桃太郎」「鉄道唱歌」などのオルゴールが作られていた
姿を想像すると不思議ですね。
精工舎は、このスイス製オルゴールを使った角形オルゴール時計を「服部の歌時計」という名で販売していました。
精工舎以外の他の時計メーカーもオルゴール時計の販売に追従しましたが、通産省の調べでは明治〜大正にかけて販売された
オルゴールはメーカーは不詳ですが、すべてスイス製です。
マウテも「靴がなる」「水兵」「桃太郎」
これは昭和初期のカタログよりですが、マウテのオルゴールに日本の譜が使われています。
舶来時計も日本からの注文で日本譜のスイス製オルゴールをいれた製品が
一般的であったことを示す証拠といえます。
国産オルゴールの歴史をもっと知りたい
明治〜大正、昭和初期にかけて販売されたオルゴールはすべてスイス製・・・。
時計の国産化は実現し成長したにもかかわらずオルゴールが何故日本で製造されなかったか?
その理由は細密機械技術の他に必要となる、櫛歯を作る金属加工、熱処理の技術が未熟で有ったからです。
また部品まで含めて国産オルゴールの研究が始まったのは昭和になってからで、
製品化に至る前に太平洋戦争に突入して計画が中断されて仕舞い遅れをとったこともあります。
昭和10年頃、欧米から帰国した銀座資生堂の松本昇社長がオルゴールの将来性に着目し、万年筆メーカーの加本泰一氏に制作を依頼、 昭和16年加本氏は「亜細亜精機製作所」を東京の江戸川に創設し国産オルゴールの開発を始めた。 研究の末に36弁のオルゴールを完成、完成品は資生堂に納品された。 しかしこれはスイス製オルゴールを分解し部品を活用して作ったとも見られている。 その後、太平洋戦争に突入して残念ながら計画は中断。 戦後は、新しい産業であるが故に櫛歯の材質、熱処理法、調律など難問が行く手を拒んだ。 徹底的な研究の末、材料や熱処理の方法は解ったが、実際に製造すると酷い変形が生じ、乱れ櫛歯で使い物に成らず、 技術指導にスイスのメーカーを訪れたがむげなく断られ、結局自らの力で考え、櫛歯の調律はハーモニカメーカーに依頼したが、 真鍮のリードを削るのと鋼を削るのでは差が有りすぎ、わずか3日で断られたという。
こうして何もかも手探りの状態の時代で有ったが、昭和22年に吉田義人氏が東京オルゴール株式会社(後の東京ピジョン)を新設し、 翌昭和23年12月24日、ようやくオルゴールの国産第一号が完成したと言う事です。
調査協力:nattouさん
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