1. 株式会社服部時計店工場 精工舎概要
精工舎が昭和8年7月に作成したと考えられる資料をそのまま転載します。カタカナはひらがなに直しています。
精工舎概要
一、沿革
弊社は服部時計店社長服部金太郎氏の創立に係る同氏は夙に時計製造の如き精密工業が最も我国民に適し他日必ず日本の重要工業の
一として成功すべきことを確信し其の創立を決意すると共に現顧問吉川鶴彦氏を技師長として招聘し明治二十五年五月
東京市本所区石原町に仮工場を設け(※1)
始めて掛時計の製造に着手せり
當時工場は技師長の外従業員十余人に過ぎず又動力とても悉く人力を用ひしか如き今日よりして之を見れば極めて貧弱なる一家内工場
なりしか其の熱心と誠実とは着々報いられ其年七月始めて掛時計一打の生産を見るに至れり
然るに監督官廰は石原町が人家稠過密にして工場地として不適當なりとの故を以て動力汽鑵の設置を許さず仍って翌廿六年
本所区柳島町(現稱太平町)の現在地を相して移転し(※2)
始めて七馬力の蒸気動力を用ふるに至れり
工場移転と殆ど時を同うして懐中時計側の製作に着手し超えて明治二十九年には懐中時計機械の製作を創む當時の懐中時計は二十二型
シリン式にして之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれば全く隔世の感なくんはあらす明治三十二年より同三十三年
に亘り社長の第一回欧米視察あり歸来工場の面目一新し諸般の設備大に革まる斯くて年を閲するに従ひ技術と生産能力と相並びて進み
明治三十三年にはニッケル製目覚時計類の製造を開始し超えて三十五年には角置時計を製作し次て各種金属製置時計に及へり由来此種の
製品は初め欧米より輸入し後廉価なる独逸製品の独占する所となりしも弊社製品の市場に現はるるに及び輸入殆ど跡を絶つに至れり
明治二十九年に創めたる懐中時計の製作は明治三十五年八九月の交に至り十四サイズ米利堅式懐中時計の完成を見同年末には當時の
最新流行品たる十二サイズ米利堅式懐中時計を製作せり本品は「エキセレント」と称し実に明治四十年以来帝国大学其の他の学校へ
御下賜相成るべき恩賜の時計として採用せられたるものなり
斯くの如く逐年工場の盛大となるに及び我政府に於ても明治三十一年には時の農商務大臣金子子爵 明治三十四年には同平田子爵 超えて
明治四十四年には同牧野伯爵何れも親しく工場を観覧し特に国産振興の趣旨を以て大に激励せらる
明治三十七年日露戦役勃発するや工場は其筋の命により殆ど全能力を挙げて晝夜兼行我軍用品の製作に没頭す
戦後明治三十九年社長の第二回欧米視察あり吉川技師長吉邨支配人共に随行を命ぜられ各国著名の時計其の他の精密機械工場を視察し
得る所極めて多く其の一行の歸朝と共に工場の面目又復一變せり
斯くて同年には新型流行品十六形懐中時計の製作に着手し同四十二年に至り完成す名づけて「エンパイヤ」と呼び最も時流に適し漸次
欧米輸入の類似品を駆逐して精工舎製「エンパイヤ」の名同業者間に宣伝せらるるに至れり
明治四十三年には従来の掛時計の他に高尚なる座敷時計を製作し(※3)
當時まで欧米諸国より輸入しつつありたる同種時計の輸入杜絶を図り
更に大正三年に至り十二形女持懐中時計完成す此年秋創立二十年の祝賀を挙行するに當り時の内閣総理大臣兼内務大臣大隅伯爵工場を
参観せられ大に国産振興を賞揚せらる
大正四年四月社長の母堂工場内に逝く母堂は工場創立以来二十有余年一日の如く工場内に起臥して自ら従業員と苦楽を共にし常に其督
勵鞭撻に當り以て斯業発達の為に獻身したる女丈夫にして工場隆盛の一半は正に其の功に歸すべきものならん
弊社製品の海外輸出に付ては明治二十八年支那に輸出したるを嚆矢とし爾來引続き規模の拡張と産額の増進は愈其の必要を促がし
支那は勿論印度南洋方面にも販路の拡張を見るに至り品質の確実を以て同業者間に好評を博せり
然るに偶々欧州大戦の開かるるや従来独逸品の供給を受けたる諸国は忽ち輸入の途絶えたるを以て各国競て日本に其の供給を求めさるを
得さるに至れり弊舎は此の潮流に棹して一時に洪水の如く東洋諸国は勿論濠洲印度南米南亞及欧州諸国就中英佛両国に莫大の輸出を
爲すに至り一躍世界市場を左右することとなれり事業の繁栄斯くの如くなるを以て永く従来の個人経営を許さず乃ち時世の進歩に
応ずるため其の半身たる服部時計店が株式組織となるや弊工場も亦隨て株式会社服部時計店の従属工場として経営せらるるに至れり
大戦終熄と同時に一般経済界は著しき打撃を蒙りたるも弊舎は戦時中無謀の擴張を行はさりしと且つ経営宜しきを得たるため其の影響
を受くること尠かりき
斯くして弊舎は世界大戦を経て規模殆ど整ひ諸設備漸く完きを得一ヶ年の生産高優に百萬個を超え各種時計の外蓄音器扇風機等を製出
せしか大正十二年九月一日突如大震火災に遭遇し三十年に至る苦心の結晶は一朝にして全部破壊せられ建物機械製品悉く烏有に歸せり
然れとも災後従業員は心を一にし鋭意復興を図り同年末には不完全ながらもバラック工場を建設して操業に着手し大正十三年三月には
早くも掛時計の製産を見同年八月には目覚時計を翌十四年七月には九形腕時計を十五年十月には十六形懐中時計及十形腕時計を製出して
以て漸く舊態に復するを得たり
而して昭和二年に至り當時の最小型タル八形腕時計を製出するに至れり加之其の技術は年と共に益々精巧を加へ機械設備の完整と相俟て
飛躍的の進歩を遂げたりされば夫の堅牢にして示時正確を誇りとしたる艦船用時計は已に大正の始めより海軍省に於いて採用せられ
引続き今日に至りたるものなるか近時鐡道省に於ても之と略精度を同うする鐡道乗務員用懐中時計に弊舎製品を採用せらるるに至りし
のみならず昭和五年には欧米最高級品に匹敵すべき十七形懐中時計の製作に成功し更に昭和七年に入りては製作最も困難とせらるる
最小型腕時計たる五形腕時計の試作にも成功し引続き市場に供給しつつあり
斯くして精工舎製品の名は都鄙を通して好評を博し国産奨励の声と共に全国に普及したるのみならず畏くも両陛下に於かせられては特に
御料の恩命を賜はる是れ実に弊舎無上の光栄として永く忘るる能はさる所なり
以上の如き有様なるを以て災後事業の復興するにつれ工場は漸次拡張に迫られつつも其の始めは区画整理のため暫く仮建設に甘せさるを
得さりしか昭和二年三月隣接陸軍省用地の拂下と同時に略区画整理の大要決定したるを以て第一期鉄筋コンクリート工場二千三百余坪の
建築に着手し昭和三年三月其の落成を俟ちて先づ懐中時計工場の移転に充て引続き昭和四年六月第二期鉄筋コンクリート工場並に事務所
四千有余坪の建築に着手し同年末其の一部の竣工を見翌五年八月第二期工事を完成し茲に復興の計画は略達成するを得たるも内外の
情勢に鑑み更に昭和八年初頭より第三期拡張工事を起し八年末を以て完成の見込なり
二、工場規模(昭和八年七月調)
一、工場敷地 | 九、三六二 坪 | ||
二、建物 | 一、一二五五 坪 | ||
三、汽鑵 | 四 台 | ||
四、機械 | 二、七七九 台 | ||
五、動力(電動機 一五三台) | 一、〇三六 馬力 |
三、製産品目及一箇年生産高
一、懐中時計(腕時計を含む) | 四十五萬個 | ||
二、掛置時計 | 九十五萬個 | ||
三、懐中時計側、艦船用時計、蓄音器等 |
四、従業員総数
内 訳 | |||
職 員 | 八三 人 | ||
男 工 | 一、六九六 人 | ||
女 工 | 七三一 人 |
本舎の光栄
伏見宮博恭王殿下 には大正十年 | |
秩父宮雍仁親王殿下 には大正十一年 | |
秩父宮雍仁親王殿下 には大正十一年 | |
高松宮宣仁親王 同妃兩殿下 には昭和六年十一月 | |
久邇宮朝融王殿下 には昭和七年五月上旬 | |
賀陽宮恒憲王 同妃兩殿下 には同月下旬弊工場に臺臨親しく操業を御覧あらせらる本舎の最光栄とする所なり |
六五・八・七・五〇〇
※1 石原工場の所在図(推定)
※2 柳島工場の所在図
※3 高尚なる座敷時計
「高尚なる座敷時計」というのはユンハンスタイプの巴里やベルリンのことと考えられます。
巴里は明治44年の服部時計店営業一覧に初めて掲載され、また意匠登録の出願が明治44年1月ですので、
製造開始は明治44年と思われましたが、この記述から現実には43年末には出来上り、
おそらく43年中に販売が開始されていたことがうかがえます。
精工舎 絵葉書
大正初期
精工舎時計製造所 |
精工舎時計製造所 |
精工舎時計製造所 |
精工舎工場内全図絵端書東京市本所区柳島町 精工舎 |
拾八枚一組 |
十八枚一組とありますが、残念ながら三枚しか入っていませんでした。
昭和5年頃
精工舎事務所 |
掛置時計工場 |
掛置時計試験工場 |
錦糸公園より見たる |
懐中時計部 |
懐中時計部 |
プレス工場 |
腕及び懐中時計 |
年代がはっきりしませんが、多分、昭和5年精工舎の第二期本建築工事の竣工を記念して発行された絵ハガキだと思います。 時計塔の付いた太平町の事務所と工場(置掛、懐中時計)です。 掛置時計試験工場内の写真右手前には硝子枠のビーやビー目覚時計がズラリと並んでいます。
昭和10年頃
精工舎事務所 |
錦糸公園より見たる |
精工舎屋上庭園 |
精工舎 |
精工舎 |
写真なし | 写真なし | 写真なし |
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