21. 長谷川時計舗(名古屋)
資料 1
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昭和3年秋、昭和天皇行幸の際、本町通は米国風のモダンな街に整備され、以後「御幸本町」と呼ばれるようになった。 右中央付近に長谷川時計舗と時計塔、手前に立花屋用品店、奥に昭和銀行名古屋支店のビルが見える。 街燈はワシントンのそれを手本にしている。
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長谷川時計舗は明治37年(明治38年の説もある)に玉屋町四丁目に新店舗を建築、その屋上に四方面大時計を設置し市民の度肝を抜いた。 これを機に組織を合名会社に改め、名実ともに本市随一の時計店となった。
明治38年、当時の貴族院議員小栗富次郎氏の所有する尾張半田町(現半田市)のボンボン時計の工場を譲り受け、 この工場では米ウォーターベリーのボンボン時計をモデルにして掛時計を製造した。 その機械、設備一式を東陽町に移転し、ハートエッチ精工所と命名した。
以後、第二次世界大戦前まで、ハートエッチのブランドの掛時計や置時計、敷島号蓄音機がここで製造された。
参考文献:「長谷川時計舗百年史」
(昭和55年6月10日 発行株式会社長谷川時計舗)
資料 2
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時計塔の全体が写る絵葉書。資料1は冬らしく街路樹には葉がないが、こちらは茂っていて大きさはほぼ同じ、約半年後?
資料 3
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時計塔の文字板上に張り付いた大きな丸い看板はコロムビアレコードの看板のようです。 時計屋さんは蓄音機やレコードも取り扱っていたのでこういったレコード関係の看板も多いようです。 音符のコロムビア・マークは、昭和6年に(株)日本蓄音器商会が米国コロムビアから譲り受け、 すべてのレコードのマークをこの音符のコロムビア・マークに統一しました。 その時代の絵葉書のようです。
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