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明治の時計塔

3. 札幌時計台(札幌)

ゆかしき鐘の響ある時計台(札幌名勝)

THE CLOCK TOWER, SAPPORO.

札幌時計台として今なお親しまれている建物は、かつては札幌農学校の校舎の一つで「演武場」と呼ばれていた。 演武場の建設は農学校の開校から二年後の明治11年(1878)年である。 農学校の校舎は明治36(1903)年に現在の北大キャンパスに移転するまで北一〜二条、西一〜二丁目にまたがる区域にあって、 演武場はそれらのほぼ中央に位置し、向きは現在と同じ西向きであった。

演武場は英語でミリタリー・ホールであるが、 軍事教練の教場として使われたのは二階の操練室だけで、階下は教室や博物標本室であり、実際は多目的の教室として利用されることが多かった。

建物は、何度も改修が加えられてきたが、 現在の姿は、大規模な復元修理(昭和42年)の結果、時計塔完成時点の姿に近いとされる。 演武場の屋上に大時計が備えられ、農学校の大時計として札幌市民に正確な時を告げるようになったのは明治14年である。

時計台について

当初の建築計画には、演武場の屋上に時計を設置する予定はなく、頂塔は鐘楼であった。 ところが、演武場の建築完成直後から時計設置の計画が始まり、明治11年10月25日、ホイラー教師が塔時計機械を注文するに至る。 機械の発注先は、懐中時計で有名な米国ハワード社。要件は以下の通り。

注文から八ヶ月が経過し、明治12年6月にハワード社発送の時計機械が横浜に到着、札幌に回送され現地に到着したのが8月。 早速荷ほどきをし装置の説明書を読むと予想以上に大掛かりな機械でとても既設の頂塔に納まるような代物ではなく、 関係者はあわて処置に困惑し、どのように対処するか一年ほど放置されることになる。 明治14年5月、時計の機械はそのままに建屋の改造を決意し、 新築早々の玄関正面部分を取り壊して、基礎部分から作り直すことなる。 時計機械の据付は建物の改造と平行して行われ、明治14年8月はじめには今日我々が見ている時計塔のすべてが完了する。 澄んだ高い音を発する鐘は、発注要件の通りハワード製でなく、東京の工部省赤羽工作分局に注文して製作された。

頭でっかちに見える時計台には、このような経緯がある。

参考文献 さっぽろ文庫6 時計台

近岡善次郎画 リトグラフ

45cm×33cm

作者不明 リトグラフ

45cm×33cm

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