17. ヘソ形目覚 ハートエッチ印 【長谷川時計舗】
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メーカー | 製造年代 | 大きさ | 仕様・備考 |
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長谷川時計舗 / ハートエッチ精工所 (名古屋) |
大正後期〜昭和初期(推定) | 最大直径12.5 p | 毎日巻き、目覚付、 真鍮胴ニッケルメッキ枠、 紙製文字板、鈴は後付 |
名古屋の「長谷川時計舗」のヘソ形目覚。長谷川時計舗の製造部門はハートエッチ精工所です。 長谷川時計舗は、明治時代から掛時計だけでなく置時計も製造していましたが、 ヒゲゼンマイを使う機械は大正中期頃からの製造ではないかと見ています。
国産目覚ましは明治に精工舎が成功し、名古屋ではじめての金属製目覚時計の生産したのは高野金属製作所で、これは大正二年のことです。 長谷川時計舗の当時のカタログを見ると、目覚ましはヘソ目の他、数回打も販売していました。 しかし、これらの現物から確認できるシェアは、精工舎、英工舎、高野の三社がほとんどを占めており、 後発の長谷川時計舗は出る幕がなかったようです。
そんな日の当たらないハートエッチヘソ目ですが、一時的に需要が高まった時期がありました。 大正十二年九月一日に発生した関東大震災により関東勢メーカーや卸商から一時的に製品供給がストップあるいは少なくなったのです。 名古屋の長谷川時計舗は 大正12年11月の表紙でここぞとばかりに、「関東の震災で時計類は特に暴騰せんとして居ります然し弊店は極力廉売し貴店にご奉仕致します」と宣伝し、 同12月号では精工舎時計の代用品としてそっくりな意匠の掛置時計をズラリと並べて即納を謳っています。
関東大震災は余りにも大きな痛手であったことは言うまでもなく、震災によって受けた被害は東京始め横浜は勿論関東地方の全土に及びましたが、 復興は予想外に早かったようです。 震災の被害を受けた地域では、特に目覚時計が飛ぶように売れ、新入荷即品切れという状態で時計業界の景気は一際上向き傾向を見せました。 これを受けて、服部時計店は十一月には銀座二丁目に仮営業所が出来、 吉田時計店は上野不忍の池畔に面した大通りにバラック建ての仮営業所を設けて東北方面に有利な商売を始めています。 翌年の春頃までには池の端仲町にあった加賀屋商会、広小路の鶴巻時計店、浅草並木町の見沢万吉商店、浅草橋の今津時計店、日本橋通三丁目の大西時計店など 市内の卸商群が続々軒を並べて商売を再開しています。
そんなこんなで、このヘソ目は長谷川時計舗の震災特需景気で流通したものなのかも知れません。
機械と文字板
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機械の構造はドイツ製をルーツとする先発の国産品(精工舎や高野)と同じです。機械には"ハートにH" の刻印があります。 高野より後発でありながら工作精度が劣る(2台確認しました)こと、また二番座が真鍮製で素人っぽいことから、 機械は長谷川時計舗の製造工場であるハートエッチ精工所の自製ではないかと考えられます。
文字板にはトレードマーク "ハートにH" があり、6時下には "HEART.H SEIKOJYO. MADE IN. JAPAN," とあります。 他のメーカー品では見たことの無い縦書きのアラビア数字が奇抜な印象です。 文字板裏には次のような修理履歴があります。
- 昭和3年5月4日 堤女学校 中沢時計店
- 昭和3年6月25日 堤女学生 中沢時計店
- 〇に七の印(メーカーが付けたものか修理履歴と関係するものかは不明)
当時のカタログから
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