15. 河北時計店時計塔(横浜)
![]() |
手彩色の明治後期の絵葉書ですが、外人向け商店街の街並み看板がすべて英語やローマ字で書かれているのがさすが横浜らしく、 壁面にある懐中時計の看板(絵)と"N.KAWAKITA" の文字がお洒落です。
河北時計店時計塔(明治27年〜大正12年)
京浜の有力時計商の集まりであった開時会の中心メンバーで横浜の「ハマの名物」として市民に親しまれたのが、 当時、弁天通三丁目六十番地にあった河北時計店の時計塔である。
創業者の河北直蔵(大正5年没58歳)は大阪生まれで、明治10年頃商道に志をたて、 来港し数年後には相生町1丁目に洋品雑貨のオークションハウスを開業した。 横浜の諸外人の不用品などを斡旋する日本のオークションの草分けで有ったが、ついで弁天通一丁目に洋品雑貨卸業を開業し、 かたわら居留地95番のワーゲン商会(明治22年以降はエフ・へロプ商会)のスイス製「騎馬印」懐中時計の輸入卸及び一手販売権を得るなど活発な活動を行い、 京浜時計業界屈指の時計商に躍進した。
河北直蔵は商才のある人で、神奈川県下で製糸工場の経営にも手を染めていたほどで、 また「横浜成功名誉鑑」に「時計商中の雅客」と呼ばれたように紅灯の巷に艶名をうたわれ、 義太夫は玄人はだし、16代横綱常陸山を贔屓にして好きな競走馬の持ち馬にヒタチの名前を付けて活躍させる程の粋人でもあった。
新店舗建設(棟梁、佐藤政吉)は明治27年春で、延330uの正方形の四階建て煉瓦館の屋上に和様折衷の時計塔を設置し、 ローマ数字の文字板直径2m、屋根は銅版葺、外装は唐草模様の漆喰仕上げ、 上下に装飾を兼ねる手摺をめぐらせた古雅な櫓時計型で時打ち装置をそなえ、鐘の音は高く麗しかったという。 機械はファーブルブランド商館輸入のイギリス製?であったといわれている。
長年弁天通界隈の名物で、大正12年の関東大震災にもびくともしなかったが、類焼によって焼失してしまったのは残念なことであった。 河北時計店は震災後店舗を再建したが時計塔はもうけられなかった。 昭和20年の戦火で再度の災禍を受けて後廃業した。
参考文献:「時計亦楽」平野光雄著 昭和51年10月25日、青蛙房刊
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
PR
前頁
・
1
/
2
/
3
/
4
/
5
/
6
/
7
/
8
/
9
/
10
/
11
/
12
/
13
/
14
/
15
/
16
/
17
/
18
/
19
/
20
/
21
/
22
/
23
/
24
/
25
/
26
/
27
/
28
/
・
次頁