4. 駅逓局の八角時計 【京屋時計店工場製】
明治7年6月、駅逓寮により全国の郵便役所や取扱所1,000か所に初めて八角時計が一個ずつ配備され、 この業務用八角時計が、人々の生活と深い関わり合いを持つようになるわけですが、 新政府の積極的な近代化政策により、全国郵便局は明治7年には3,245箇所であったものが、同12年には4,193、 同15年には5,527と急速に増加、それに伴い、郵便局用八角時計の注文は激増し輸入品に頼るだけでは供給が追い付かなくなりました。
そこで、駅逓寮の御用を務めていた水野伊和造は、駅逓権助、真中忠直の勧告もあって自店裏に工場を設け、 明治10年ころからトーマスをモデルとして同じ片側八角時計の製造を開始したとされています。 この国産片側八角時計は米国製に伍して全国の郵便局に配置されたと言われていましたが、時計の現物やその詳細は不明でした。
このたび、この水野伊和造、京屋時計店製の八角時計が発見されましたので、ここにご紹介します。
京屋時計店工場製 八角時計の考察
メーカー | 製造年代 | 大きさ | 仕様・備考 |
---|---|---|---|
京屋時計店工場(水野伊和造)製、国産 | 明治14年頃 |
文字板八吋 全高26.5cm(掛金入れず) |
毎日巻、 テンプ式、 打方なし、 薄板張り木製ケース |
全体的にモデルとした米国製トーマスを忠実にコピーしようとしている。
ケースと背板のラベル
八角の寄せ木造りの上にモデルを模して表面に薄板を丁寧に張り合わせている。
舶来品は薄皮と呼べるべニアであるが、こちらは2mmほどの厚さが有り、皮というより薄板と呼んだ方が適切な厚みであり、
モデルのコピーを意識した側作りである。
こういったケースの張りものは、その後の国産には見当たらぬもので、初期国産の意気込みが感じられる。
ケース裏には特に焼印などはなし。
内部にはいろいろな書き込みが有るが判読不明のもの多し。
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裏板には破れているものの貴重なラベルが残り、そこには、 明治14年に東京上野で開かれた第二回内国勧業博覧会に出品して受賞した歴史的時計で有ることが誇らしげに記載されている。 ところどころラベルが切れて判読に苦しいが上記のようであるようだ。
文字板
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文字板は、直径21.3cm(八吋)、厚めの一枚プレス板(ワンピースダイアル)でローマ数字ペイント手書き文字板、 12時の下の緩急針の下に「駅逓局」の手書き文字が有る。 6時の上にはアラビヤ数字の小秒針が付く。 3時と4時の中間に鍵穴が一つ付くのは、片側時計と呼ばれる打ち方無し機械のためで、これはトーマス製と同じである。 トーマス製には鍵穴にハトメが付くが、こちらにはない、外れたものかも知れない。
ガラス枠は全周ガラス押さえの付いた真鍮枠タイプで、これもトーマス製と同じである。
文字板裏には、「長野駅、宮原郵便局」の文字書き入れ有り、長野県で使われたものかも知れません。
機械
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機械もモデルを忠実にコピーしており類似した構造です。 ゼンマイ日巻、円天府にはトーマス製にあるチラネジが付いていません。 アンクル爪は楔形鋼製地板、歯車とも真鍮製、地板4か所ネジ止で右上に丸に駅の刻印、右下に○○五の刻印有り。 駅は駅逓局の駅と思われるが500ととれる刻印は意味不明。 ゼンマイやヒゲなどの一部、部品は舶来と思われるが全体に丁寧に作られた印象。
掛け金
以上、全体の特徴を御覧いただきましたが、基本的に先のモデルの米国製トーマスの八角時計を忠実にコピーしたもので、 「明治初期 東京時計産業の功労者たち」に記された平野光雄さんの記録とぴったりと一致するものです。 有りがたいことに裏のラベルがかろうじて判読できるだけ残っていたのが奇跡的です。
水野伊和造は、明治14年の内国勧業博覧会に駅逓局のために作った八角時計を出品して進歩二等賞を受賞しています。
そのメダルと進歩二等賞の文字や駅逓局命調進という古臭い言い回しが時代を感じさせるとともに、
当時のお上から仕事を請け負った職人や商人の誇りや国産先駆けの熱い意気込みが伝わってくるようです。
(調進というのは宮中や大名などからの特別な注文を納めることを事をいいます)
八角時計はこのように駅逓寮から普及し始めたのをきっかけに、やがて交番、学校、役所、町工場、一般家庭まで広く普及して、
人気者になりました。
大隅源助などの古い引札に八角時計の図が多用されてるのは、その辺の初期のボンボンの普及を示しているようです。
最初は米国製のものが中心でしたが、やがて国産各社も八角時計を生産し、
特に精工舎は戦前まで八角時計を生産してロングセラーとなりましたが、
それらを含めてほとんどが打ち方の付いた鐘打ちの八角時計で片側時計は駅逓寮だけの特徴のようです。
しかし戦後の一時期打ち方のない毎日捲二号と文字板にある片側時計が精工舎から作られていることは、
これらがボンボン時計(八角時計)の始まりと終わりを象徴するような歴史的時計で有ったことを痛感します。
内国勧業博覧会と現存最古の八角時計
明治新政府が国内の殖産興業政策を推進させるために開催されたのが内国勧業博覧会でした。
第一回は明治10年に東京上野公園にて開催され、入り口の門の上に櫓型の塔時計が備え付けられ、 出品者の東京日本橋の金田市兵衛がこの大時計で龍紋賞を受賞しましたが、めぼしい時計はこれ位でした。
第二回は同じ上野公園で明治14年に開催され、これには国内時計産業の先駆けとなる東京麻布、金子元助(金元社ー八角掛時計)、 金田市兵衛(塔時計)、小島房次郎(置時計)、水野伊和造(八角時計)などの時計が出品され、 それぞれ進歩二等賞牌を受賞しています。
水野の八角時計は郵便局用のもので市販されたものか疑問ですが、現物資料により郵便局用に一定量生産されたものでしょう。
また金元社は市販を目的とした初の時計製造会社で、明治8年に東京麻布で水車を動力として設立されたと言われてますが、
東京府の統計資料には明治13年から記載され始めていますので、
いずれ量産がかなったのは水野伊和造同様に第二回内国勧業博前後であったことがうかがえます。
現在金元社の時計は確認されておらずこの同時期の水野伊和造の八角時計は日本の量産時計として現存最古ではないでしょうか。
日本の近代化遺産の最古の文化財として輝ける星の一つで有ろうと思います。
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セス・トーマス製との比較
正面からの姿
機械
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天府輪の大きさは、京屋時計店製の方が2mm弱小さい。 天府の形状は、トーマスは腕金が三本でチラネジ付き、京屋時計は横断型の一本腕金でチラネジが付いていない。
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