3. 京屋水野伊和造と京屋組
明治6年頃、京屋時計店は外神田旅籠町一丁目に土蔵造二階建ての本店を構え、その後幾許もなく銀座四丁目の煉瓦館に
支店を設けた。
同年8月頃には店舗屋上へそれぞれファブル輸入の四方塔時計を設置し、
東京市民に外神田の大時計と呼ばれ「八官町の大時計」(小林時計店)とともに東京名物に数えられて、
上野駅に下りる旅客にとって格好の目標とされていた。
明治7年頃、京屋時計店水野伊和造は大物時計の仕入先である横浜28番チップマン商館主の紹介によりファブルブラント商館と
協定を結び、ファブルの輸入するスイスのゼニット会社製懐中時計の販売総代理店を引き受けた。
この早い時期の販売権の獲得により大きな信用と発展を得て、その名を業界に大きくクローズアップし、
彼をして斯界に絶大な勢力を得さしめたものとおもわれる。
伊和造はさらに、明治22年頃、京屋出身者及び同店と密接な取引関係を結ぶ時計商を糾合し、京屋組という全国的な団体を結成した。
これは京屋時計店を中心にしたファブルブラントの一種の販売同盟であり、また相互扶助的な同業親睦団体でもあった。
この京屋組の時計店は店頭に京屋組と書いた獅子印の木彫看板を掲げ、ファブルブラントが輸入した塔時計を屋根の上に
設置した所も少なからずあった。
京屋組は伊和造が亡くなる(明治39年1月15日)と自然消滅したようである。
また伊和造は駅逓寮の御用をつとめて、横浜のチップマン商会の輸入するセストーマスの八角時計などを納めていた関係で、
駅逓権輔、真中忠直の勧告に従い外神田の本店裏に工場を設けて、明治10年頃よりトーマスをモデルに局用八角時計の製造を開始した。
この京屋製八角時計はモデル同様打ち方のない「片側時計」と呼ばれるもので、アメリカ製に伍して全国郵便局に配備されたと
いわれている。
この時計は明治14年の3月の上野で開かれた第二回内国勧業博覧会に出品されて、進歩二等賞を授与されている。
さらに伊和造は懐中時計の製造を企て、ファブルの紹介で明治18年長男太一を時計製造技術伝習のためスイスの時計学校に留学させたが、
この夢は実らなかった。
参考文献、明治前期時計産業の功労者達
平野光雄(昭和32年6月発行)
静岡県掛川の中村時計店の明治期のチラシ
静岡県掛川の中村時計店の明治期のチラシ |
チラシの左上に、京屋組と書かれたうえに盾によりかかった獅子が乗った絵が入っているが、是が京屋組のシンボルマークである。
京屋組の会員はこのマークと同じ木彫看板を掲げていた。
京屋銀座支店
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「京屋組」の一員の後藤万造商店の時計保険証
大きさ:7×5cm |
名古屋時計業の老舗、玉屋四丁目、後藤万造商店の時計保険証。
名刺を一回り大きくした厚紙に石版印刷で自店の屋上に備え付けられた時計塔を描いている。
後藤商店は京屋水野伊和造の販売同盟組織「京屋組」の一員で、
京屋の時計塔に良く似た時計塔を掲げ、欄干下には盾獅子と京屋組の看板が見える。