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時の記念日

18. 改暦弁(明治六年)

改暦弁 福沢諭吉著

慶応義塾蔵版
明治六年一月一日発行、21x14.5p

時の文明開化

我々が現在使っている暦は、太陽暦といって世界共通のものです。 ところが、江戸時代から明治の初めにかけては太陰暦といって月の運行を中心にして作った暦を使用していました。 太陽暦は新暦、太陰暦は旧暦とも呼ばれます。

昔使っていた太陰暦は外国と共通でなく日本独自の暦であるため、開国とともに不都合が多くなり、 また年によって閏月があって一年が十三ヶ月になることがあったりと、不合理な点もあったようです。

斯くして明治政府は太陰暦をやめ太陽暦を使うこととし、明治5年(1872)11月7日に暦をあらためる詔を出し、 12月3日を明治6年(1873)1月1日とすることにしました。 これが明治改暦であり、時の文明開化です。

改暦弁(かいれきべん)と福沢諭吉

改暦で明治5年の12月はたった二日で終わってしまうことになったわけですから、これは一大事件です。 ところが政府は、簡単な改暦の布告と詔書を一方的に下すのみで国民に満足な説明をしない。 そんな状況の中で、啓発家 福沢諭吉が国民に改暦を説明するために作成した解説書が「改暦弁」(慶応義塾蔵版)です。

ちょっと横道にそれますが、 諭吉は、1860年(万延一)一月、幕末の攘夷論(じょういろん)が高まる時代に、 ジョン万次郎らとともに幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに渡っています。 そして、1861年には外国奉行竹内保徳らの一行に加わってヨーロッパへ二度目の外国旅行へ行っています。 どうりで外国の文化に明るいはずです。 1866年には「西洋事情」の第一冊目を、その翌年には「西洋旅案内」と西洋文明の紹介の書物を出版し多くの人の眼をひらきます。 1872年(明治5)には、諭吉を最も有名にした「学問のすすめ」が出版され、そして、この「改暦弁」へと繋がっていくわけです。

改暦にちなんだ啓発、解説本の出版は数多くありましたが、 その中でも、諭吉の出版した「改暦弁」は平易に分かりやすくコンパクトにまとめてあります。 地方ではまとめ買いする町村もあってベストセラー小冊子となり、慶応義塾の財政にも大きく貢献したと言われています。 半紙二つ折り十二枚綴り、売価四銭五厘というコンパクトな手軽なもので、 内容は太陽歴と大陰暦の比較説明と西洋時計の見方を平易に解いています。

























ウイキの日の名として一週間が七日であり、ソンデイ、マンデイ、チュウスデイ・・と解説、 一年は十二ヶ月で、月の名をジヤニユエリ、ヘブリユエリ、マアチ・・・と解説、三月・四月・五月が春で、六月・七月・八月が夏、 九月・十月・十一月が秋、十二月・一月・二月を冬。 時計の見方は、一日は24時間からはじまり、最後に図入り。

巻末に「・・・故に日本国中の人民この改暦を怪しむ人は必ず無学文盲の馬鹿者なり、これを怪しまざる者は必ず平生学問の心掛ある知者なり、 さればこのたびの一条は日本国中の知者と馬鹿者を区別する吟味の問題というも可なり。」と啓発家福沢諭吉の面目躍如たるものがある。

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