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改暦

1. 改暦の話

日本は幕末まで基本的に鎖国をしていて不定時法の旧暦(太陰暦)を使っていました。 農耕民族の日本にとっては季節の移り変わりに準じた旧暦は都合のよいものでした。 その為にわざわざ旧暦の不定時法に合わせた和時計という世界に類のない機械時計を作り上げました。

幕末の開国により外国から不平等条約を押し付けられた新政府は一日も早く対等になる為にも欧米の諸制度の導入に熱心にならざるを得ませんでした。 新政府は明治5年11月の突然の太政官布告で国民に改歴を知らしめました。 欧米の先進国は太陽暦(グレゴリオ暦)を早くから採用していて、同じ太陽暦のユリウス歴を採用していたロシアは一段低く見られていました。

日本もグレゴリオ暦を採用して世界の仲間入りを果たしたかった?・・・こともあったでしょうが、明治の改歴の実情は新政府の逼迫した経済状態にあったといわれています。 というのは明治6年は旧暦で言うところの閏月(うるうづき)のある年でした。 1年が13カ月あったのです。太陽暦は1年が365.25日の周期ですが、旧暦の太陰太陽歴は年は太陽の運行に合わせ、月は月の満ち欠けに合わせたものです。 月の周期は29.5日と中途半端なので30日の大の月と29日の小の月に分けていました。 1月、29.5日を12倍すると354日なので年に約11日分ずれが生じて、3年に一度、13ヶ月目の閏月を設けて暦を調節していたのです。

そこでひどい財政難であった新政府は急遽、名案としてこの機会に改歴を断行して、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることによって12月分の給与をカットし、 明治6年の旧暦の閏月を改歴で無くすことにより2か月分の予算をカットできるという究極の裏技を使ったのです。(官給は江戸の年俸制から明治の月給制に変わっていました) 盆暮れの掛売りの多かった当時の商人は師走が飛んで急に正月が来たものですから大混乱したという事です。何も決めれない現代とは或る意味雲泥の差ですね。 万事、年中行事も月遅れの旧暦との対比が始まったのはここからでした。

2. 改暦ノ布告(明治5年太政官布告第337号)

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京都府知事より京都府民に出された改歴の布告書

京都府令書壬申十一月第271号
明治5年11月9日

京都府令書壬申十一月第271号

明治五年十一月九日付けの改暦に係わる(天皇の)詔書とこれに伴う太政官布告 337号により、 従前の旧暦(陰暦 、 太陰暦 、太陰太陽暦、直接的には天保暦)を廃し、太陽暦に改められた。 布告は各県ごとに印刷され告知された。

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