2. 近江神宮と時計
日本書記の第二十七巻、天智天皇十年(西暦671年)の條に「夏4月丁卯朔辛卯(4月25日)漏剋(水時計)を新台(にひうてな)に置き、始めてときを打ち、鐘鼓をならし、 始めて漏剋を用う。この漏剋は、天皇の皇太子たりし時(西暦660年夏5月)に始めて親らつくりたまふところなり云々・・・」 と記されている。 これは天智天皇が、 漏刻(注1)を用いて、時を知らせた故事を記したものである。
近江神宮の御祭神、天智天皇は、中大兄皇子と申し上げた折、大化改新を断行され、 近代国家確立の体制の基を開かれた中興の英主であらせられ、天皇に即位後、改新の諸事業の完遂と人心の一新を企てられて、 天智六年(西暦六六七年)都を大津に移された。
我国の時刻制度の始まりは、天智朝十年四月二十五日(六七一年)大津京の内裏に漏刻(水時計)をお造りになり、 鐘太鼓を鳴らして時を打ち国民に時刻をお知らせになったのに始まり、室町後期外国より機械時計が齎される迄は、 この漏刻が時刻を計って来た。
大宝律令(七〇六年に完成)によれば、中務省陰陽寮に漏刻博士及び守辰丁十二名を置き、 日夜漏刻の管理と時刻の告知を行わしめた。
「時の記念日」六月十日は、天智朝十年四月二十五日の御事蹟を太陽暦に換算した日で、 大正九年天智天皇の御偉業を称えて記念日に指定され、時の祖神、時計業界の守護神として 崇敬を受け、御偉徳を偲ぶ盛大な祭典が営まれている。
水桶は、満水池、夜天池、日天池、平水池の四つがあり、階段状に配置してある。 そしてこの各々の水桶から水が流れるように管を使って水を落す仕掛けになっている。 一番下には刻分壷と呼ばれる箱が置かれ、ここに溜まった水の量をはかって時刻を知ったのである。 この刻分壷には、矢が浮かしてあり、その矢には刻みがついているので、時刻をはかることができたのである。 日時計は雨天の時には用をなさず、また火時計や砂時計は常に人手を要したのに比べ、この水時計は、当時、 一歩進んだ時計ということができる。
参考図書:
- 近江神宮時計博物館カタログ
- 最新変動教材収録第九巻第十号
臨時号誌上時展覧会(南光社発行)
(注1)漏刻
漏刻は、通称、水時計といわれるもので、高い所に水を汲み上げ、その水が幾つかの水桶を経て、 一番下の水桶に溜まった量をはかり、時刻の経過を知ったものである。
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