22. ヘソ形目覚 【愛知時計】
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メーカー | 製造年代 | 大きさ | 仕様・備考 |
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愛知時計株式会社 (名古屋) |
大正末 | 最大直径12.5 p | 毎日巻き、目覚付、 真鍮胴ニッケルメッキ枠、 紙製文字板 |
ありそうで無い愛知のヘソ目です。文字板と機械の両方に商標登録第22280号のマーク(〇の中にAC)があります。 機械は摩耗が少ないため使用された期間はそう長くないようで見た目もほぼ原形を保っています。 製造年代は、ヘソ目としては古くもなく新しくもなくといったところで、推定大正末期としておきます。 大正14年6月に愛知時計電機株式会社から時計部を分離して愛知時計株式会社を創立しました。 時計は高級品以外は同社で生産されましたがその頃ではないかと思っています。
愛知時計のヘソ目が少ない理由について。 会社の歴史を眺めてもらえればわかりますが、 愛知時計は明治時代末には林時計にかわって名古屋の時計業界を規模においても生産技術においても代表するメーカーとなりました。 明治37年に信管部品の注文を受けたことを契機に掛時計事業以外にも進出するようになって、社名には「時計」とあるものの、 大正12年の時点では 「当社の事業は飛行機製造がその主体である。 外に時計類、安全硝子及び諸電気を造っているが、これらは要するに飛行機の附帯事業である。 即ち当社は言わば大部分が兵器会社で・・・」といわれるようになっていました。 時計の販売先も内地は3割で残りは輸出ということですから、こういった事情が現存数の少なさにつながっていると思います。
なおこの時代、掛時計の飽和状態と名古屋製掛時計の高度化の技術的限界に対して、 時計と軍需というまったく違う事業の両立で事業の安定・発展を図ったのが愛知時計。 もう一つの例として、大正二年に設立された高野金属があげられます。 高野は安定していた掛時計事業に加えて、名古屋でも東京の精工舎に次いで金属製目覚しの製造を志して成功し、 その技術は職工の移動とともに尾張時計、明治時計にも伝えられたと言われています。 愛知時計の置き時計やヘソ目の製造はどのような経緯で進んだのでしょうか。
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鋳物のゴトクにマウントされた機械は高野のT.O印の機械に似ているような気もします。 打方ゼンマイのループエンドは四ツ柱でないところに固定されています。 鉄ピンでない真鍮製の目安カムクサビ(写真10)は高野でも見たことのない仕様です。
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