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時計錦絵

16. 夜会巻き

夜会巻

昭和39年堀田時計店刊
36x27cm、伊東深水筆、木版画

掲載許可:株式会社ホッタ

名古屋の老舗時計舗であった堀田時計店(現、株式会社ホッタ)の先々ヽ代堀田六造氏は、 日本画の伊東深水画伯と親交があり、戦時中は画伯の執事を引き受けたほどの人でした。 その縁で戦後、堀田両平氏の尽力により、堀田版の伊東深水時計美人木版画が開版されるところとなりました。 「美人と櫓時計」「夜会巻」「ボンボン時計」の三部作は、特に戦後の伊東深水美人画の異色の傑作として評価の高いものです。

夜会巻き(やかいまき)は束髪の一つで、鹿鳴館に参集する女性の間で始められたものです。 髪を中央、あるいは七三に分けて一度頭部で束ねてから、脳天の方へ美しくS字に巻きこんでピンで抑えた髪形です。 日本の伝統的な女性の髪形である日本髪は、その見かけとは裏腹に大変手間のかかる、日常生活には不便なものでした。 明治になると日本髪に替わるものとして簡単に結える洋風な束髪が提唱され流行します。 夜会巻きの流行は、明治30年以降、洋装、和装にも及んで現代に続いています。

波乱万丈?のバンジョークロック

後ろに描かれたバンジョークロックは、米国ボンストン、ハワード時計会社製で旧上野図書館旧蔵(現国立国会図書館)のものです。

戦前まで唯一の国立の図書館として親しまれた上野の図書館は、 明治政府が徳川幕府から引き継いだ書籍を納めるのに本郷湯島の聖堂脇に書籍館を置いたのが始まりと言われています。 上野公園に建物が出来たのが明治18年、明治30年に帝国図書館の官制が決まり、明治39年に赤レンガの建物が出来ました。 明治22年、まだ東京図書館と呼ばれていたころ、東大の文科の教授を兼任していた田中稲城氏が図書館の学術調査のため欧米に派遣され、 23年春に帰国して東京図書館長になっています。 その時にあちらで多数の洋書を購入したという事ですが、書物だけでなく時計や図書館用具なども購入されました。 上野図書館の古い物品の帳簿には、その頃購入したものとして、大型時計二個拾円、小型時計一個三円、 小型時計三個七円五十銭と記入してあります。 どれがどれだかはっきりとわかりませんが、この中の大型二個がバンジョークロックと考えられます。

これらの時計達は図書館で活躍したのち、お蔵入りとなっていましたが、 昭和34年の春ころに会計検査院の指摘により、時計の廃棄処分と払い下げが勧告されました。 見積もりを依頼された古物商はこれらの時計に対して「鉄の目方だけでもかなりある・・・」と言ったといいます。 鉄や真鍮のつぶしとして処分しようと考えていたのでしょう。 しかし珍しい時計で有ったため、民間への払い下げは一時中止して、 同じ上野にある国立科学博物館の朝比奈貞一博士(日本時計倶楽部会員)に見てもらうべく照会が進みました。

すんでのところでつぶされかかったこのバンジョー兄弟は、 裏に帝国図書館2号、帝国図書館3号のペイント書き込みが有ります。 状態の良い兄の帝国3号は科学博物館に引き取られ、少し痛みのある2号は堀田両平氏に払い下げられ、 堀田氏はお礼にスイス製の高級掛時計を図書館に寄付されたとの事です。

そのような縁で無事復活したバンジョークロックはハワードの一番小さいサイズのバンジョークロックで、 しかも硝子絵が珍しいエンジ色でした。 それが伊東深水画伯の手になって時計美人版画としてもよみがえった事はまた大変めでたい事でした。 その後、このバンジョーは堀田さんと仲の良かった平野光雄さん元へ嫁ぎ、平野さん亡き後に関西のコレクターに渡り、 現在は名古屋のコレクターのもとで余生を送っているようです。

堀田版 伊東深水美人版画

堀田版伊東深水美人版画は堀田時計店からすべて専門の額装をして記念品として配られました。 版画の左下には、「甲辰拾 堀田」 の摺り印があり、額の裏には通常以下のようなシールが貼ってあります。

日本美術院会員伊東深水画伯作
「夜会巻」 昭和39年
当社創業85周年記念及びに大阪店新築記念
株式会社堀田時計店 堀田両平

裸のシートの場合は(マットから外してあるものは)長年のシートをマットに留める際のテープ跡が変色して 紙面四隅にシミとして残ってるものが多いようです。(本物の証?)

参考文献:「バンジョークロック」朝比奈貞一
「再建満十五周年記念時計随筆五十人集より」昭和37年、堀田時計店刊
「時計と民具と」平野光雄 昭和46年、日本時計宝石PRセンター刊

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