1. 堀田時計店の略歴
名古屋に於いて堀田時計店といえば長谷川、野々部と共に最も古い歴史を持った時計店として有名である。 初代堀田良助は明治7年に42歳で林市兵衛商店に入職、 明治12年、下長者町4丁目で時計の卸業を創業し、 発展して明治16年には鉄砲町1丁目に移転して明治28年、店舗屋上に時計塔を設置して大いに話題となる。 これは東京の金田市兵衛が第二回内国勧業博覧会のために製作、出展されて受賞した、 各種錦絵にも有名な四方大時計でその後堀田時計店に設置されたもので文字板9尺ほどの堂々たるものであったと言われる。 この当時の時計塔の機械は殆どがファーブルブランドやコロンがらみの輸入舶来機械で国産塔時計機械は大変珍しいが、 現存する山形県鶴岡の西田川郡役所の楼上に据えられた塔時計の機械も金田製である事が知られている。 明治30年代にはアンソニアの機械を入れた自家製のボンボンを発売して大いに好評を博した。
明治42年に初代良助が逝去したので長子が2代目良助を襲名。
大正13年に3代目良助襲名。
昭和3年に3代目良助引退、次男分家六造が堀田時計店を継承。 宣伝と広告には万金を惜しまぬ営業振りに「時計はスイス、買うなら堀田」のキャッチコピーは名古屋のみならず東海地方の童子にまでも行き渡った程の評判を取り盛業発展した。
昭和10年に引退して4代目良平に家業を継承。
昭和13年に戦争で良平が応召した為家業は一時休業、昭和15年から六造が伊東深水の執事を頼まれてた。
(風流時圭男ー堀田八二朗(六造)自伝の内「伊東先生の執事となる」より)この方は粋人でも有り、
多方面の交友の中でも日本画の伊東深水との縁は有名な話で後に戦後の堀田版伊東深水画、美人時計版画シリーズの誕生となる。
戦後は昭和22年1月に北区東大曽根町に堀田良平商店として復活し、23年には株式会社堀田時計店に改組し、34年には東京支店を本社として移転。 時計、宝飾の大手商社として発展して昭和60年に株式会社ホッタに社名変更、現在6代目堀田峰明社長のもと、ホッタグループとして益々盛業中。 なお、戦後のホッタグループの沿革は株式会社ホッタのホームページに詳しい。
4代目堀田両平(良平)氏の堀田コレクション
4代目堀田両平(良平)氏は流通業界の功績により2度の叙勲を受けられたが古時計蒐集家、研究家としても有名で、 生前に蒐集された貴重な万巻の内外の時計蔵書、資料は国会図書館に寄贈され、現在堀田コレクションとして公開されている。 又会社の記念事業時には必ず時計錦絵とも呼べる堀田版オリジナル版画(伊東深水、川上澄生、金守世士夫、神崎温順)を開版、 頒布した事は戦後の日本の時計文化の中でもひときわ輝きを放っている。 同様に時計ファンの心をつかんだ堀田時計店の各種の時計販促品も大変好評で当サイトでもその一端を紹介していきたい。
東方 大関 堀田両平 |
参考文献
- 「名古屋時計業界沿革史」 吉田浅一編纂 昭和28年 商工界刊
- 「風流時圭男 堀田八二朗自伝」 昭和54年8月30日 堀田時計店刊
- 「ホッタ小史 堀田からホッタへ - 堀田良平の半生記」 平成2年11月14日 株式会社ホッタ刊