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スイスの時計産業

1951年時計条例

第二次大戦後スイスは不況の時期と戦争中を通して施行された緊急法を組織的に撤去、ないしは通常法に切替えた。 同時にスイス連邦の憲法31条の2に、連邦政府は国民の利益がかかわると思われるような非常な場合には、 危機に曝されている重要な産業部門を維持するために商工業の自由の原理を制限して条例を発布する権能があるとの趣旨の追加規定が加えられた。

スイス農業条例や時計条例は、この新しい憲法の規定に基づいてできたもので、 時計条例は1951年6月22日の連邦議会議決で1952年1月1日に効力を発し、 1961年12月31日まで効力を有した。 (連邦議会議決は、スイス憲法により特定の年数有効な法律となるのである。) 「スイス時計産業を維持するための措置」に関する議決は、これと同時に効力を発し (1)時計産業の国外移転を阻止する規定と (2)過剰設備投資を規制する規定を含む施行令によって補足された。 この議決と施行令を併せて「スイス時計産業に関する条例(時計条例)」と呼んでいる。

時計産業には商工業の自由の原則から幾分外れた特別な待遇が与えられる訳であるが、 それはその産業の危機は景気の変動から起こるだけではなく、 なお「或る部分で典型的な手工業的性格」を保持しているその独特な構造に由来するからである。 時計条例の内容を簡単に要約してみると、それは20年以上続いている状況に照応しているのである。 この条例により国家が最低価格の保証人であることを止め、 連合体の価格設定が今や純粋な私法的性格を帯びることになった点でのみこの状況は緩和されたことになる。

1951年時計条例の明白な目的は、時計産業の構造を維持することである。 この条例の議会趣意書の中には、「維持する」又は「保持する」という言葉が繰返し出て来る。 現在スイス時計産業界には各種規模の企業がある。 企業数は約2,900社で従業員総数は70,000人、1社の平均従業員数約27人である。 大企業には持株会社のエボーシュS.A.に属する8社があり、最大従業員総数は8,800人である。 Manufakturen(大部分のものを自家で制作する工場)では、1社あたりの最大従業員数は289人である。 これに属するものには72社あり、総従業員数は21,000人そのうち6社は1,000人以上、5社は500人から1,000人の従業員を有する。 しかしこの規模の企業の大部分、即ち39社は100人から500人の労働者を有する。 Etablisseuren(大部分の部品を外注する工場)においては、ほとんどの企業、即ち426社が50人までの労働者を使い、 50人から500人の労働者を使っているのは90社にすぎない。 テンプ製作工場はスイスには唯1社しかなく、従業員数は1010人である。 しかしこの工場は資本規模の異なる多くの下請工場を有しており、その中の多くは小企業及び小規模な中企業である。

企業の新設及び拡張の際の国家による許可に関して云えば、最初の数年間は厳しく制限されたが、やがて明らかに緩和された。 1957年までの新設許可申請1,912件のうち1,282件が却下されたが、これに対し拡張申請1,808件のうち却下されたのは204件にすぎなかった。 新設申請の場合には、申請者の職業的適正の問題が決定的な役割を果していたのは間違いないようである。

団体協定

1934年と36年に連邦議会によって緊急法が発布されると同時に、国家の好意的な監督の下に時計産業界の主導的な各連合体は、 「時計産業の保護と振興と健全化のために」1936年相互間において団体協定を結んだ。 この協定が実際的な成果を挙げるまで幾度も改訂され、また次第に協力にされ、遂に公然たる反対を呼ぶに至った。 動揺が1961年の新時計条例の先駆をなした。

この協定を結んだ団体は先に述べたように、FH,UBAH 及びエボーシュで、ロスコップ連盟は最初参加していなかったが、 後にロスコップ時計製造者の一部がアンクル付時計も作るようになり、従ってFHに属するようになってからは、 ロスコップ連盟も加入することになる。

時計産業の保護、振興、健全化の目的とする所は、1959年の連邦物価委員会の調査書に見られるように、 国内における価格競争の排除と外国の競争相手に対する防衛措置のための具体的な手段を考慮に入れることによってはじめて正しく理解しうる。

団体協定の監督機関としては、Delegations Reunies(連合委員会)が当り、この委員会には協定解釈、協定条項の実施、定価表改訂の審査、 協定違反に関する懲戒、予防措置の施行その他の権限が与えられている。 この委員会と並んで、部品の定価表を設定する価格委員会と信用問題を統制する既述のFidhor とがある。 Fidhor は供給者と得意先との帳簿を点検する権限があり、或る会社が報告を拒否する場合には最高の罰則で懲戒することができる。 Fidhor が確認した事実は、それに対する反証が提出されるまでは、連合委員会及び仲裁裁判所において証明力を有する。

動揺期

1954年頃から時計産業界の識者の間では、この産業の中間階級的な性格を維持しようとする立法者と連合体の願望と意思が、 いかなる犠牲を払っても永続的に貫徹し得るものかどうか考え直さねばならない事情が起ってきた。 新しく抬頭してきた外国の競争相手は、2つの形で現れてきた。 1つには1954年アメリカ合衆国が、国内市場に廉い時計が氾濫するという理由から、輸入税を50%引き上げたことである。 ついで合衆国司法省がスイスの2つの連合体FHとエボーシュに対し、その団体協定が最低価格を規定しているという理由で、 反トラスト訴訟を起したことである。 さらに同じ両連合体に対しスイスにおける時計製造機械の輸出禁止を攻撃するもう一つの反トラスト訴訟も起された。 この訴訟は両方とも今なお未解決であり、時計関税引き上げのほうは、当初は期限付きということであったのに、 数週間前合衆国議会の担当委員会において期間延長が決定され、スイス時計産業の憤懣を買ったところである。 先に見たとおり合衆国向け輸出は1958年から59年にかけて後退を示しており、スイス時計にとってアメリカ市場はもはや無限の吸収力のある市場でないにしても、 やはりスイス時計貿易の死活を制するものであることには変りはない。

時計産業は、一国が国際収支を楯に取って時計などがまず第一に算えられる「非必需品」の輸入を抑制しようとする時には、いつもに輸入制限を蒙らねばならなかった。 これに加えて50年代の半ば以来、その力は量的にも又おそらくは質的にもなお小さなものではあるが、再び世界市場には外国の競争相手が登場して来た。 ともかくもそれは低価格によって廉価クラスのスイス時計の輸出を圧迫して来たのである。 廉い時計はマークがなく無名時計と呼ばれロスコップ時計もこれにはいるが、 しかしロスコップ時計の優秀なものは、今では最も安い無銘時計よりも質的に優れているほどに改良されているとのことである。

この価格低下の結果として、スイスの輸出業者も次第に外国の顧客に対しリベートを余儀なくされ、従って団体協定と自分たちの属する連合体の最低価格の規定に違犯することになった。 この「リベート」---こう説明されている---は昔からあったものであるけれども、1956年から57年にかけてこれが初めて明らかな紛争と反抗を惹き起こしたのである。 当時3つの連合体、FHとエボーシュとUBAHは団体協定を改定して罰則を更に厳しいものとしたが、 これに対しFH内部にはフランス系スイスのCADHORとドイツ系スイスのTrieboldグループの両つの反対派が生じた。 フランス計の反対はFHから脱退し、ドイツ系の方は留まったが新協定の承認を否定した。 UBAHは供給停止によって謀叛者を圧迫したが、政府が間に入り、ボイコットには至らなかった。 これに対しFH内部にはフランス系スイスのCADHORとドイツ系スイスのTrieboldグループの両つの反対派が生じた。 FHとCADHORは中立2者の参加を得て調査団を設置した。 パリのOEECにおける前スイス代表のジェラルド・パウエルが会長になり、この調査団はそれ以後のすべての調査の基礎となり、 やがては新しい時計条例の基礎ともなる専門鑑定書を作成した。

リベートの調査は、この調査活動の最終目的であったのではなく、時計産業の全般的状況を調査する契機を提供したのである。 連合体の問題のみならず生産性の問題も各供給段階を通じて調査された。 さらにこの調査はスイスにおける今後のカルテルの問題及びそれと同時にEECにおけるカルテル法の問題も扱ったが、これに対しジェラルド・パウエルは専門家として最適の人物であった。 今のところ、これまでに明らかにされた範囲内では、スイスのカルテル法は---現在この法案は最終議決の前にある---新時計条例に対立するものではないようである。 EECのカルテル法は、これに対し全く逆の方向を目指しており、即ちカルテル禁止の原則の上に立っているが、スイスの法案はカルテル悪用を禁止し「可能な自由競争」という考えの上に立っているのである。

パウエルの鑑定書の第一の成果は、1959年団体協定において従来の法規定に加えられた改訂である。 新規定は本質的により流動的に作成され、緩和されたものになっている。 時計産業界は価格景気から数量景気への推移、売手市場から買手市場への推移によって特徴づけられる世界市場の現状に対応する措置を講ずることを欲したのである。 協定の更改は必須のことであった。 調査団の調査によっても、外国品との競争により完成品時計の上に加えられる価格低落の圧力は、特に無銘時計において著しく、製造者にとっては多くの場合、 以前好況時に承認した部品供給者の規定価格をそのまま製品の買手に転嫁することは不可能な状態になったのである。 むしろ全く逆に製造業者は、企業を続けるためには秘かに割引きを、また好ましからぬリベートさえもしなければならぬ状態だったのである。 この結果1959年の新協定の規定では、FH及び4つのASUAGトラスト (エボーシュ社,Les Fabriques d'Assortiments Reunies S.A., Societe des Fabriques de Spiraux Reunies S.A., Les Fabriques de Balanciers Reunies S.A.) は随時、加工素材及び調節部品の価格、定価表及び販売条件の決定又は変更に関して協議を開くことを要求し得ることになった。 Manufactur達は、お互いの間で加工素材を、ただしエボーシュが規定した価格で交換し得る権利が承認された。

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