1. 輸出状況
スイスの時計産業は生産の97%を輸出している。従って輸出高は生産高とほぼ同じもものと見て差し支えない。 輸出を分析すれば生産状況の大要を知ることができる。 1920年来の発展をたどる第1表は、2つのはっきり異なる発展段階の局面を示している。 すなわち1)両次対戦間の停滞と、2)第2次大戦後の素晴しい好況である。
参考資料:スイスの時計産業 日本経済調査協議会 1963年2月
第2次対戦末までの第1段階において時計産業は不況に対し特別敏感であったことを示している。 それに反し大戦後の第2段階においては予期せざる発展を遂げたが、しかしやはり波はまぬがれない。 1958年には後退が起り、1960年には新な飛躍を示している。 さらに戦後の発展において注目すべき点は、輸出数量と輸出金額との関係である。 57年から58年にかけて輸出数量は相当減少しているが、金額はその割に減っていない。 また59年から60年にかけての輸出数量の伸びは、それに見合う輸出金額の伸びを示していない。 1960年から61年にかけて、後に見るように殆どの製品の平均価格がわずかながら上昇している。 しかしながら外国製品の競争による価格の圧迫は次第に強くなってくるのが認められる。 最近の2年間の発展において時計1個あたり及び部品の平均価格はほぼ維持されており、 のみならず上昇すらしているが、これは先ず業界の自主規制、ついで義務的規制のお蔭である (時計産業に関する1961年新条例に関する項を参照せよ)。
1953年から61年までのスイス輸出総額は5,164.6百万フランから8,822.1百万フランに増えているが、 時計の輸出高の伸びはわずか300百万フランにすぎない。 1953年時計の輸出高は輸出総額の21.4%を占めていたが、この比率は次表のように次第に後退した。
同期間中の機械産業の占める割合は20.4%から22.2%に上昇し、化学医薬品産業の割合は12.6%から19.2%にまで上昇している。
1961年の時計輸出額1,313百万フランのうちヨーロッパ向けは383.5百万フランであった。 アメリカ合衆国及びカナダ向けは275.6百万フラン、他の米州地域には176.5百万フラン、近東及び中東には75.8百万フラン、 アフリカ向けは66.2百万フラン、オセアニアには21.0百万フランであった。 前年比最大の伸びを示したのはヨーロッパ向けで、13.8%であった。アメリカとカナダを除く他の地域は、輸出総額の伸びに貢献している。 北米地域の若干の後退は云うまでもなく北米の景気後退と関係がある。
FH(Federation Horlogere スイス時計製造業者連盟)はスイス時計の10大輸出先を定期的に発表している。 第3表はその1950年、1955年及び1960年のものを収めている。 これによるとアメリカは、1955年以来輸入量が減って来てはいるけれども、それでもやはり最大輸入国であることに変りない。 1954年アメリカは時計の関税を50%引き上げると共にスイスの時計産業に対し反トラスト訴訟を起した。 これについては時計産業に関する新条例の実施に至るまでのスイス時計産業の歴史を述べた第2章で報告する。 1957年アメリカはスイス時計輸出総額の26.3%を引き受けていたが、1961年には18.5%に減少している。 2番目の輸出先は1950年には香港、55年にはイタリア、60年以降は現在に至るまで西独である。 東アジア全地域に対する輸出中継地の役割を担う香港は過去7年間、その間もちろん相当の起伏があるけれども、 3番目の地位を維持し続け、イタリアは4番目に後退している。 10年間を通しカナダ、イギリス、スペインは10大輸出先のリストに常に入っている。 各国の経済事情や緩和されたり引き締められたりする輸入制限の状況によって、このリストは常に変動している。 たとえば1957年度香港がスイスの時計輸出高に占める割合は9.5%であったが、1958年には5.1%、61年には6.1%であった。 イタリアは素晴しい好況のお蔭で1961年には前年度の5.7%から6.3%に上昇している。 EFTA加盟国たるイギリスは1957年には2.8%を占めていたにすぎないが、以後その比率は上昇し続け61年には4.3%になっている。 シンガポールは第7番目の国として3.8%から3.3%に落ちている。 スペインも4.1%から2.9%に減少、スエーデンは2.4%から2.8%に増加。 メキシコは2.9%から2.6%に後退、ブラジルは2.5%で割合は変らない。
1962年の上半期は61年の上半期に比べ規模は様々であるが一般的な伸びを示している(第4表)。
PR
1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / 13 / 14 / ・ 次頁