6. 吉沼又右衛門時計保険證
吉沼保険證 @ 明治20年
|
同じ時計商の保険証を経時的に見ると歴史的事実が垣間見えてきます。 吉沼又右衛門のもので比較してみましょう。
まず始めの@は吉沼が時計店として創業して間もない頃のものです。 石版印刷の桐と鳳凰の飾り枠に吉沼時計舗の背景文字入りの中に以下のようにあります。
表面
- 證
- 中形鋲打ボンボン時計 壱個 米国製
- 第一條 時計保険券は壱ケ年内時刻の遅速は勿論振り留り或は工合変し等これ有る時は無代価にて相直しもっとも破損並びにゼンマイ切れ入れ換等は直し代価の半額収受する者とす
- 第二條 この券状一カ年毎に一度あて磨き油挿に相なるときは三十年間受合の証とて差出す者とす
- 第三條 この券状附の物品有効期間内他人え譲渡することを得もしくは前約に違う時は無効の者とす
- 但し古物品は壱ケ年間無代価工合直し受合といえども年限に至りては第二條の限りにあらず
- 明治廿年九月廿六日
- 東京日本橋区兜町三番地 吉沼 又右衛門
- 同区小網町四丁目二番地 同支店
裏面
- 追加
- 第四條 交換は壱カ年以内売却原価の壱割引且御持捲又は不用の節は二割引きを以って引取る者とす
- 但し以上壱カ年毎に五分増の事
保険の条項はその後の保険証も同様な内容が多く、商館貿易の中で外国の商習慣を参考にして国内に取りいれられたものでしょう。 最初の一年は修理無償、毎年のメンテで30年の受け合い保証と言う長いものですが、明治のジャンクが修理で今でも立派に現役復帰してますので、 あながち無理難題保証ではなかったのかも知れませんね。 もっとも会社の方が30年持ちませんでしたが。 第四條は吉沼独自の買い取り保証だったようです。 また他人に譲渡しても保険は有効と言うのも太っ腹? 印章も名前より時計師という称号の方が大きく、誇らしげです。 屋号が入山平で、明治20年にはすでに小網町に支店が有った事が分かります。
吉沼保険證 A 明治26年
|
@と同じ保険内容ですが住所に製造工場の名前が出てきます。
- 證
- 金五円廿拾銭
- 改良四ツ丸 八日保玉振 柱掛時計
- 第一條、
- 第二條、
- 第三條、
- 裏面追加第四條
- 明治廿六年五月四日
- 東京日本橋区兜町三番地
- 吉沼又右衛門
- 同区小網町四丁目弐番地
- 同支店
- 小石川区初音町九番地
- 同製造場
この保険證が発行された時期は、明治26年4月に兜町の旧店舗を取り壊し、当時流行の時計塔付三階建煉瓦石造館を新築した頃です。 明治24年以降香港、シンガポール、上海等に輸出を始め、海外輸出を目的とする大量生産を志した時代でした。 最初の時計工場は明治22年頃日本橋南茅場町に設けてその後小石川へ移転したと言われてますが、小石川に移転したのは最初は初音町で有った事が分かります。 印章は「吉沼本店保険證券之印章」に変わっています。
吉沼保険證 B 明治29年
Aと同じような保険内容ですが住所に第一製造場と第二製造場が現れてきます。
- 證
- 金拾壱円四十銭
- 銀側片硝子21形 一個
- 機械
- ニッケレ―○番石入り向爪アンクル
- 瑞西国 コロン製
- 第一條、第二條、第三條、裏面追加第四條
- 東京日本橋区兜町三番地
- 吉沼又右衛門
- 同区小網町四丁目弐番地
- 同支店
- 同小石川区戸崎町九十七番地
- 同第一製造場
- 同小石川区表町壱番地
- 同第二製造場
この明治29年には従来に加えてボンベイ、カルカッタ方面等へも販路を開き、 月産ボンボン個数2400個、八角時計1200個を数え、同年9月には吉沼工場を資本金20万円の東京時計製造株式会社に改組して、 自ら社長に就任した一大発展期でした。 工場も小石川戸崎町と表町の2工場になっています。