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精工舎・服部時計店

6. 服部時計店の略歴

年 号 事 項
万延元年(1860) 服部金太郎10月9日江戸京橋采女町において古物商を営む父喜三郎、母はる子夫妻の長男として誕生。
明治5年 京橋区八官町の洋品雑貨問屋辻屋に13歳で丁稚奉公にあがる。
明治7年 近所に有った八官町の大時計で有名な小林時計店(小林伝次郎)を見て時計商になる志をかため、 惜しまれながら辻屋をしりぞいて、日本橋区上槙町の亀田時計店に年期奉公に入った。
明治9年 同店主の紹介で今度は下谷区黒門町の坂田時計店入店。修理、販売を習得。
明治10年 店主が他の事業に失敗し倒産、やむなく勤務をやめ采女町の自宅に戻り服部時計修繕所の小看板を掲げた。 自宅に帰った以降は桜井時計店に時計技術者として通勤する傍ら仲間修理や自宅修理販売にたずさわる。
明治14年12月 服部金太郎、自宅にほど近い所に服部時計店を創業。
明治16年3月 火災により類焼、直ちに銀座通に近い木挽町5丁目に服部時計店を再興。
翌年の墨刷番付「東京高名時計商繁昌鏡」に服部の名が最下段に早くも登場している。
明治20年9月 舶来時計の仕入れ販売に力を入れて業績を拡大して銀座4丁目2番地の煉瓦地の二棟を買い服部時計店を移転する。 木挽町はそのまま支店として存続。
明治25年5月 本所石原町の遊休ガラス工場を買収して精工舎工場を創立。
明治27年9月 京橋区銀座4丁目の朝野新聞社の建物を買収してアメリカで建築を学んだ伊藤為吉が設計し服部時計店を増改築する。
特に屋上の「服部の時計台」は以後東京の名物、銀座のシンボルとして有名になる。
大正9年 服部時計店仮営業所、京橋区銀座2丁目2番地に竣工、同所に移転。
大正10年10月 銀座4丁目の服部時計店本建築が起工され、明治以降の旧建築を取り壊し引き続き地下工事に着手。
大正12年9月 関東大震災により服部時計店仮営業所および精工舎工場全焼、仮事務所を芝区新桜田町20番地に開設。
震災当時立替の基礎工事の途中であった為、すべて設計変更になり6年後、昭和4年に建築再開された。 ローマやギリシャ建築のネオルネッサンス様式を採用し外壁は耐震耐火のためにすべて天然石に変えたと言われている。
昭和7年6月 新服部時計店が京橋区銀座4丁目に落成、新しい屋上の服部の時計台は明治、大正のそれに引き続き東京名物の一つとなる。
昭和20年8月 終戦により服部時計店の建物は占領軍により撤収されPX(米軍の駐屯地内売店)となり服部時計店本部及び小売部は同店別館2号店に移転。 米兵の存在は銀座の復興と国際化に寄与し、交差点にもMPが立って交通整理をして注目を浴びたりしたが26年GHQが廃止するまで続いた。
和光は昭和22年服部時計店の小売部門を継承する形で営業を開始した。 国内外の高級品を専門に時計から宝飾品、洋服、食器、小物まで多様な商品を扱って現在に至っている。
昭和49年 和光(服部時計店)の時計塔が新装成る。 高さ12m、文字板径2.4m長針1.17m短針0.75m 時計は4つの板面が正確に東西南北を向いている。
昭和63年 日本建築士会連合会が各都道府県の「地域のシンボルとなっている昭和の名建築」を選定した折、東京タワーや霞ヶ関ビルなどを 抑えて、東京都のシンボルに選ばれたのが和光の時計台であった。 明治大正昭和と昔も今も東京のシンボルとして名高いのは時計ファンとしても嬉しいものだ。

参考文献:

  1. 「服部金太郎翁傳覚書」 平野光雄著 昭和46年7月5日 第二版、非売品
  2. 「精工舎史話」 平野光雄著 昭和43年10月15日 精工舎発行、非売品

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