1. 日本時計(NIPPON CLOCKS)の略歴
日本時計(福田好司社長)は、戦後に創業を開始した岐阜県関市(当時の関町日ノ出町)の時計メーカー。 戦闘機用のねじを切る工具を製造していた「日本精密工業」を前身とし、昭和22年冬に工場を再建して輸出を目標に製造に努力を重ね、 昭和23年に日本時計株式会社となった。
掛時計を専門とし、昭和29年には月産3,000個うち2,000個を毎月台湾や東南アジア、アフリカなどへ輸出していた。 「売れる時計を」との社命で開発し、昭和26年頃に発売した「中三針掛時計」は同社を代表する特徴的な製品であり、 その製品化成功は岐阜県で郷土産業の新市場開拓としておおいに期待されたが、時代に合った事業転換ができず、 火災も重なり、昭和35年6月に消滅した。
国産初(※)の中三針掛時計
長針と短針を貫く文字盤中央の軸に秒針を加えた中三針機構の開発は、 当時のオリエントの腕時計(赤針の三針時計)をヒントにしたものである。 昭和23、24年頃、故福田好司社長は、20歳だった 福井光雄氏(福井時計店店主) に11人の部下を与え開発を指揮させた。 明治時代から蟲(むし)付と呼ばれる小秒針のついた掛時計はあったが、実際の「秒」を示すものではなく、 中三針の開発にあたっては、ガンギとアンクルの組み合わせが課題であった。 秒針をつけるために、ガンギの歯数を60枚(後に56枚に変更)に増やし、 さらにアンクルの爪がガンギ車に入るために、歯をアール形状にする必要があり、これに苦心したという。(福井氏)
中三針掛時計は当初一週間巻きであったが、後に特許(pat.380315)を得て三十日巻きとなり、 三十日巻中三針掛時計は、昭和33年2月6日に岐阜県優秀工産品選奨展に初出品、一般に公開するとともに量産を開始された。
それまでの掛時計は一週間ないし10日に一回ネジをかけないと止ってしまうが、 日本時計の考案した三十日巻きは、このわずらわしさを解消するためゼンマイ二個を装置し、 最初のゼンマイがもどり終ったら次のゼンマイに自動的にリレーし振り子を動かして活動し一回ネジをかければ30日から40日間は動くことを可能にした。 この機構は、工場長佐藤良治氏(当時39才)が1ヶ月研究した成果だという。
こうして、完成した国産唯一の三十日巻中三針掛時計の精度は、40日間で約2分内外という正確さで品質面でも好評を博し、 年間3〜4,000個が生産された。 完成品は大半がアジア向けに輸出されたため、国内で販売されたものは10%程度(数にして300〜400個)と極少である。
※ その後、中三針掛時計の製造について調査を進めたところ、日本時計のほかに栄計舎、農村時計、高野精密も製造したことが確認出来ています。 各社で実用新案や特許をそれぞれ取得しており、方式は違えどどこのメーカーが最初だったかという点については 日本時計が国産初ではない可能性が高いという考え方になりつつあります。(継続調査中)
福井時計店
取材協力:FUKUDAさん