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万年時計(萬年自鳴鐘)

4. 田中久重作その他の和時計

万年時計以外の田中久重作の和時計としては、 嘉永3年(1850年)に完成した須弥山儀(しゅみせんぎ)が有名だが、 もうひとつ須弥山儀と同様に浄土真宗本願寺派の宗教家・佐田介石が地球儀に対抗して天動説を説くために考案し、 製作を田中久重に依頼した視実等象儀(しじつとうしょうぎ)はあまり知られていない。

視実等象儀

和時計図録(国立科学博物館)より抜粋

視実等象儀は、地上からの見かけの宇宙と、実際の宇宙の関係を示すために作られた天象儀の一つで、 現物は、国立科学博物館に寄託されて、現在も陳列されている。 須弥山儀の現存七台、佐田介石の考案の視実等象儀は幕末伏見の戦いで類焼したが 科博のこれと市立熊本博物館の計二台現存しているといわれる。

天動説視実等象儀 引札

天動説視実等象儀 引札

明治十年内国勧業博覧会陳列、木版墨摺
明治12年 25x33cm
明治十二年五月器械発起 版主 神奈川県下 藤田 古梅

機械部分を田中久重が作成し、
外周等の細工は松本喜三郎、狩野辰信とある。

視実等象儀詳説

視実等象儀器図解 引札

佐田介石は天台宗の僧侶で、明治初期に梵歴運動や国産愛用外貨排斥運動に邁進し、 明治15年に全国遊説中に倒れた。 この引札は、介石の没後にその業績を顕彰する目的で出版されたものであり、 内容は、彼の考案した視実等象儀と新須弥説の視実等象論の図解説明書である。
視実等象儀の内部機巧は田中久重が作り、明治10年の上野公園で開かれた第一回内国勧業博覧会に 介石、 自らこの装置を持ち込んで、デモンストレーションを行っている。

木版色摺、明治16年4月5日出版御届、
明治16年5月刻成発行 38x50cm

編集兼出版人
摂津国東成郡天王寺村四百十九番地
大阪平民 森 祐順
図書謄写
速水 東湖

右に図する機械は故佐田介石先生古より世人多く視実両象の理を詳にするものなく唯その視象一辺を以て実象と思い誤るゆえ 天地の実象顕れずこれを以って此理を明らかにせんと欲してことさらに幽栖の地をえらび白日といえども戸を閉じ部屋を暗く 昼あんどんを掛けて沈思黙考すること十有三年一旦豁然として視実両象の理を天下の人に知り易からしめんが為にこの機械を製せり 名付けて視実等象儀器という
さてその視象とはみなすかたちと訳して大を小と視成し高きを低きく視成す如きを視象と名付くその実象とはありのままのかたちと 訳して万里の天は万里のままにて一分一厘も増減無きを実象と名付く蓋しこの視象に五種あり一に視大小二に視広狭三に視高低 四に視遠近五には視平円なり今二三を示さばまず視大小とは大なるものを小さく視成すことなりたとえば日輪の体は西洋の ある天文家の説にては八十二萬二千百四十八里の大きさなれども地上の人目に見るところは僅か七八寸の小径とみなすゆえに 視大小と名付く又視高低とは高きを低きく視成すことなりたとえば富士山を原宿や吉原宿にて見れば三十六町余の高さに見ゆれども 伊勢の朝熊にて朝旭の出るを見るに富士山日輪の中に見えて日体の半面よりも猶低く視成如き高きを低く視成すゆえに視高低と名付く 視平面とは平坦なる天象を丸きかたちに視成すことなりたとえば東京にて天を見るにただ東京の天のみ高く見えて四方の天末に至ては 天と地と合して低きく見ゆる如く地を地を易にえるに随って何処にても遠く見る所の天末と地と合して低きく視成す これ天象に定まれる円形あるにあらず天体は平面なれども人目にて笠のごとく円形に視成これを視平面と名付く如此視実両象大に 別あるに似てしかも等象する姿は図に就いて弁知すべし

この論法(天道地静論)によって介石は須弥山の存在までも鮮明にし得るとし、 いずれも西洋天文説は人力の目撃しうる範囲に留まるが仏説は天眼により宇宙の深奥まで明確に出来るとした。 所詮単なる経験を法則化したまでで今の知識では不可解なものである。 この理論を模型で示そうとしたのが視実等象儀である。

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