1. ファブルブルブラント商会
ゼームス・ファブルブラント 略伝
ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)の創始者ゼームス・ファブルブラントは 文久3年(1863)にスイス特派使節団のエーメ・アンベール一行の随員として来日し、日瑞条約が調印された後も、 一緒に来日したブレンワルド(シーベル商会創始者)とともにそのまま我国に残り、横浜にそれぞれ貿易商館を創立した。 ファブルブラント商会は元治元年(1864)に横浜54番で設立されたが、1866年 有名な豚屋火事で類焼し、 其の後175番に移転して関東大震災(大正12年)で被災廃業するまで同地で営業していた。
横浜の商館貿易は日清戦争の頃までが黄金期で明治30年代には横浜貿易は次第に下降線をたどったようであるが内外の信用が 厚かったファブルはその後時計のほかに新式猟銃や水道鉄管等の輸入にも携わり、亜鉛銅山の経営にも成功を収めている。 ゼームス・ファブルブラントは大正12年8月に亡くなり(享年82歳)横浜山手の外人墓地にその婦人(松野久子)とともに葬られている。 ファブルブラント商会は時計のほか、紡績機械や兵器などを扱い、 特に懐中時計は長兄エドワード・ファブルペレが関係したイギリス製やスイス製の時計、またゼニットの製品やナルダンのクロノメーターも輸入していた。 明治前期の有力時計商は殆んどファブルと取引をしたが中でも外神田の京屋時計店水野伊和造は特にファブルブラントの販売同盟「京屋組」を作り、 全国代理店組織によってファーブル輸入の時計販売に努力した。
ファブルブラントの懐中時計は他の商館時計と比べて品質も高く、名前と等級によるマークが入っている。 ファブルブラント商会が明治10年に発行した「時計心得草」によると、懐中時計には獅子印が1,2等品、蝶印(フォルタイン号)は3等品、 無印がそれ以下となっている。 又明治22年の東京、田中時計本舗の時計定価一覧表によると獅子印、攫獅子印、野羊印、蝶印の四種類が載っている。
またクロックとしては横浜町会所の時計塔や京屋組の塔時計などの多くの塔時計の機械(イギリス製、一部フランス製?)を納入している。 (塔時計の機械は山形の蜂屋時計店、福島の薮内時計店、仙台三原時計店などのものが現存している。) フランス製の機械を国産の箱に入れた分銅引きの大時計(ホールクロック)も販売しており、現在でも全国に少なからず残っている。 ホールクロックは文字盤にFAVRE BRANDTとあるものが多く、 此れはファブルブラントが輸入販売した時計と言う意味で正確の意味でのファブルブランド製ではない。(機械はフランス、箱が日本) その他平野さんの本ではファブルの名前の入ったフランス枕なども紹介されている。
参考文献:「明治前期時計産業の功労者達」
平野光雄著(昭和32年6月発行)
ゼニットの広告入り絵葉書
ファーブルブラント商会の珍しいゼニットの広告入りの絵葉書です。 図中の懐中の文字板にはFAVREBRANDTとZENITHの文字、登録商標済の上には盾獅子のマーク、 表の消印に明治四十年四月五日の日付け有り。
卒業式でしょうか?母親は和服に下駄ですがお嬢様?は振袖、袴にしゃれた靴を履いています。