1. 尚工舎・シチズンの略歴
年 号 | 事 項 |
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大正7年(1918)3月 | 貴金属商、貴族院議員 山崎亀吉 氏、東京市郊外上戸塚に「尚工舎時計研究所」 を設立 |
大正10年(1921) | 尚工舎時計学校を創立 |
大正13年(1924) | 懐中時計の完成品10サイズ(16 3/4型)「CITIZEN」を完成 |
昭和5年(1930)5月 | シュミッド時計工場支配人中島与三郎氏、同社勤務鈴木良一氏らが、尚工舎を母体としてシチズン時計株式会社を創立 |
昭和6年(1931)6月 | シチズン最初の男持ち腕時計十型半を完成 |
昭和7年(1932)12月 | スター時計商会を合併、側の製作を開始 |
昭和9年(1934)5月 |
淀橋工場※を拡張 ※昭和7年10月に東京市淀橋区となり戸塚工場もこの時から淀橋工場となった。 |
昭和10年(1935)6月 | 都下田無町に約二万坪の敷地を購入し、12月に地鎮祭、翌11年5月に田無新工場を竣工 |
昭和10年(1935)9月 |
八型女持腕時計の試作完成 高級品を作ろうとミドー8 3/4型をモデルにしている |
昭和11年(1936) | 中国及び南方諸地域に腕時計を輸出 |
昭和11年(1936)7月 |
貴石製作所※を合併して軸受石の業務を継承
※貴石製作所は昭和9年頃設立された会社で、原石を加工して軸受石・爪石を製造していた。 |
昭和12年(1937) | 淀橋、田無の両工場施設を拡充 |
昭和13年(1938)4月 |
兵器工場を田無工場内に併設、兵器部品の製作を始める この頃になると、軍需生産の拡充により民需生産の抑制が目立つようになり、 時計産業では、輸出向け以外の置時計・目覚時計の製造が禁止され、服部時計店(精工舎)の生産は陸海軍将校用の 腕時計や軍需用時計に限定された。 |
昭和13年(1938)12月 | 社名を「大日本時計株式会社」と改称 |
昭和16年(1941)9月 | 機械工作部門であった日東精機株式会社を併合、工作機械の生産を開始 |
昭和20年(1945)8月 |
長野県飯田に工場を疎開 高射砲弾などの時限装置や風船爆弾に使う時計類似の兵器を製造する目的で疎開を開始し、設備機器の据付も終わって 稼動直前の状態までいったところで終戦を迎えた |
昭和20年(1945)11月 | 疎開先から東京両工場に引揚げ、全面的に腕時計生産を開始 |
昭和21年(1946) | 賀川豊彦氏らが終戦で閉鎖された疎開工場「精工舎南桜井工場(埼玉県南葛飾郡)」の敷地、工場建物をGHQから譲り受け 時計工場の(株)農村時計製作所と技術者養成機関「農村時計技術講習所」を創立 |
昭和21年(1946)6月 |
京都洛西の郊外太奏に大沢商会と折半で日東時計株式会社を創立 技術者を養成して月産2〜3千個の生産能力を備え、製品に『嵐山 |
昭和23年(1948)2月 | 社名を「シチズン時計株式会社」に復名 |
昭和24年(1949) | ドッジプランによる不況で日東時計を解散 |
昭和25年(1950)11月 | 経営不振により10月30日に農村時計が創立四年半にして事業を停止、11月3日に「リズム時計工業株式会社」として新発足 |
昭和27年(1952) | リズム時計工業株式会社に出資し、同社を系列下におく |
昭和27年(1952) |
国産初の三機能型として有名な10・1/2カレンダーウオッチを発売。 10・1/2型のムーブメントに日・曜・月表示を備えたもの 曜・日は自動送りだが月表示は手送りしなければならない 日付表示は文字板サークルに沿って時文字を囲んだ配列であり、針で指し示すポインターデート |
昭和31年(1956)4月 |
国産で初めての耐震装置「パラショック」を発表 時の記念日に地上30mの上空から投下実験を実施。 |
昭和33年(1958)5月 | シチズン初の自動巻き腕時計「シチズンオート」発売 |
昭和34年(1959)2月 | シチズンデラックスが通産大臣賞を受賞 |
昭和34年(1959)6月 | 国内初の防水機能付き腕時計「パラウォーター」完成 |
昭和35年(1960) |
アラーム機能付き腕時計「シチズンアラーム」発売 ムーブメントに付いたハンマーが裏蓋に植えられた打棒をたたいて音が鳴る仕組み |
昭和35年(1960)3月 | アメリカブローバ社と長期輸出入契約を締結 |
昭和35年(1960)7月 | シチズンデラックスが国内市場初の販売百万個突破を記録 |
昭和37年(1962) | 世界一薄い「ダイヤモンドフレイク」発売 |
昭和38年(1963)6月 | 時の記念日にパラウォーター太平洋横断テスト実施 |
参考文献:「社史外伝」シチズン時計株式会社