1. 屋井乾電池 平角三号
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湿電池(Wet cell)としては、ラーランド、ルクランシェなどがあり、 これらの電池の近代史は西洋から始まりました。 一方で、乾電池(Dry cell)を発明したのが日本人で、 東京物理学校(現在の東京理科大学)に通った屋井先蔵であることはあまり知られていません。
屋井先蔵の経歴は以下の通りです。 写真の屋井電池には「東京神田 屋井販売部」とありますので、明治40年以降の製品でしょうか。 それにしても初期の製品の姿を良く残した貴重な資料だと思います。 乾電池という名前は、それまでの液体電池、湿電池に対して乾いた電池=乾電池と先蔵がつけたものだそうです。
屋井先蔵と乾電池
明治・大正に乾電池王と呼ばれた屋井先蔵は文久3年(1863年)12月5日に越後長岡藩の城下袋町で生まれた。 明治8年、13歳の時に単身郷里を出て東京神田の時計店(京屋時計店本店)で丁稚となるも、病気のため2年余りで帰郷。 明治10年から17年までは長岡の時計店で修理工として年季奉公をし、その後に東京職工学校(現:東京工業大学)入学を志望したが受験に2度失敗、 それからの3年間は独力で永久自動機等の研究を続けた。
その後、東京物理学校(現:東京理科大学)の実験所付属の職工として専門知識を学び、 明治18年に、下谷御徒町に実験室を設けるに至る。 これが屋井乾電池の創業・発明が明治18年(1885年)と伝えられるところになる。 乾電池の改良研究は耐えることなく続けられ、明治22年(1889年)に至ってカーボンのパラフィン処理に成功し、一応の完成を見た。
明治24年(1891年)に29歳で結婚、同年わが国における電気に関する最初の特許といわれる電気時計の特許(第1205号)を取得する。 明治25年(1892年)にはシカゴ万国博覧会に出品した東京帝大理学部の地震計に屋井乾電池が使用され、その優秀性に国内外の関心を集めた。 明治26年(1893年)に乾電池の特許を取得。 日清戦争では、満州の寒冷地に於いて陸軍の通信機器の屋井乾電池が使用され絶大なる効力を発揮し、その事情が内外の新聞に報道されたため、 業績が著しく進展する。 一方、工場は浅草七軒町から黒門町へ移り次第に拡張。明治40年には神田錦町に販売部を設け、屋井乾電池の基礎は確固たるものになる。
参考文献 : 白いツツジ 上山明博著、2009年
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屋井乾電池は写真の機械にセットされていました。平角三号が縦にすっぽりと収まります。 まるで最近に製造されたかのように大変良い状態です。
無線電信機かな?と思いましたが、どうやら電気治療器のようです。 江戸時代の博物学者平賀源内が復元した摩擦起電器のエレキテルは有名ですが、その進化した機械かもしれません。 ほぼ同様のものが『信州モノづくり博覧会 - モノづくりの東西交流』図録、長野市立博物館に掲載されており、 それは小林清隆発明の「平流乾燥電気装置」(明治29年頃)とあります。