1. 播陽時計製造会社の概略
明治6年、明治政府は田中久重の高弟の田中精助を開催されていたオーストリアのウイーン万博に時計技術の習得のために派遣。
精助は帰国後廃藩置県で禄を失った旧姫路藩士のための姫路の訓練施設「授産所」で時計技術を伝習したと言われている。
その後この授産所出身と思われる旧姫路藩の鉄砲、刀鍛冶職の篠原右五郎を中心に上月宗七、児島源太郎ら旧士族で公債を資本
として明治8年ころに結社を作り、洋時計の製作をこころざし、研究を始め、16年にはぼんぼん時計を作っていた。
会社名は原月社(8年以降)、開成社(15年頃から)、白鷺時計製造会社(20年から21年まで)、21年からは
播陽時計会社に
変わり23年に閉鎖したようである。
初期の時計の現物はよく分からないが小島健司氏も「明治8年から時計の生産を始め、あるいは名古屋の林市兵衛より早く
機械生産をこころざしたという先駆者の栄誉を受ける事が出来ると思う」と述べている。
(参考文献:日本の時計労働者、小島健司著 1993年)
播陽時計製造会社は明治21年呉服商矢内三次郎を社長に兵庫県飾東郡南八代村(現在の姫路市八代本町一)に資本金2万円で設立され、
同地に有った綿糸紡績所跡を利用し、動力はブリ輪と呼ぶ大きな車の人力や水車を利用した。
アメリカから技師を招くなどして、四つ丸や八角のボンボンを製造、最盛期には月産30台を数えたが、数年で解散し、
その設備は名古屋の林時計が引き継いだと言われる。そのため日本の掛時計産業のパイオニアの一人であるが現物資料の
大変少ない幻の時計の一つでもある。
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