1. 京都時計製造株式会社の概略
琵琶湖疎水と京都時計
明治23年10月に設立された京都時計製造会社は国内時計製造会社のパイオニアの一人である。
当時、時計工場の動力には、人力・水車・蒸気機関などが使われていたが、
京都時計製造会社は国内時計産業で初めて電力を動力として使用している。
明治維新とそれに続く東京遷都により、京都は一時人口や産業の衰退の時期を過ごしていた。
そのような中、京都復興の決め手として琵琶湖の湖水を京都市へ運ぶための水路「琵琶湖疎水」の大事業が計画され、
明治18年に着工した。
当時諸事業は外国技術者に頼っていたが、琵琶湖疎水は設計施工とも日本人の手で行われた。
工事は一大難事業であったが、9年の歳月をかけて明治23年4月9日に完工している。
疎水により京都と琵琶湖の水運や水道用水が可能になったが、標高差で通船不可能な区間があり、これを解決するために
坂道にレールを敷いて台車に船ごと乗せて運んだのがインクラインと呼ばれる傾斜鉄道である。
疎水の水は発電にも利用され明治24年11月、京都蹴上に日本初の水力発電所(蹴上発電所)が営業運転を開始している。
(電力事業用として日本初であるが、自家発電としては明治21年宮城県広瀬川の三居沢発電所が少し早い)
この水力電気を利用して開業した
京都市電が日本最初の電気鉄道
(最初は民営であった - 京都電気鉄道1895年)である事は有名だが、
当初の発電所は遠方まで配電するのが困難であった為、利用していたのはインクラインと京都時計のみであった事は
(特に京都時計の事は)余り知られていない。
京都時計略歴
年 号 | 事 項 |
---|---|
明治23年10月 |
京都時計製造会社設立 京都市下京区麩屋町通竹屋町下ル |
明治24年 |
京都時計製造会社 小学校跡を買得して移転、合資会社として登記 京都市上京区富小路二条上ル鍛冶屋町 資本金二萬円 役員、代表 大沢善助 他4名 職長 横山 柏 (斉藤輝徳の弟子と言われる)職工87名 使用動力 電力1.5馬力 1台(創業開始同年11月) |
明治25年10月 |
京都時計製造株式会社に改組 京都市上京区富小路二条上ル 資本金五萬円 代表 堤 弥兵衛 |
明治26年7月 |
京都時計製造株式会社 商標登録→原本参照 株式登記、資本金拾萬円、代表 堤 弥兵衛 株主60名 職工208名 |
明治27年 |
増資弐拾萬円 代表 堤 弥兵衛 株主65名 職工225名 使用動力 電力 1.5馬力3台 |
明治28年 |
京都市で開催された第四回内国勧業博覧会に正面に大時計を設置し、その他八角時計、振子時計など30点を出品。 振子時計は有功二等賞、時計歯割盤で有功三等賞を受賞している。 (ボンボン時計背面ラベルのメダルはこの時のもの) |
明治29年3月 | 木工部の火の不始末により全焼 |
明治30年1月 |
京都時計製造株式会社再建 京都市上京区富小路上ル 資本金弐拾萬円 代表 堤 弥兵衛 株主117名 職工45名 使用動力 電力5馬力1台 |
明治33年 | 名古屋へ移転、尾張時計との合併を前提に会社を解散し敷地を売却するが合併は実らず合名会社に改組移転。 |
明治34年 |
京都時計製造所(合名会社)移転 京都市聖護院町 代表 堤 弥兵衛 職工 25〜32名 使用動力 電力 8馬力 年間生産台数 12300台(35年14400台) |
明治36年12月 | 京都時計製造所 廃業 |
明治38年10月 | 堤 弥兵衛 没 |
商標登録原本
明治26年7月3日登録 堤彌兵衛 |
京都名所案内
疎水 インクラインの景 |
電気鉄道 水力電気を以て運転す |
七条停車場 時計塔が見える |
明治34年3月改正新版の「京都明細地図」の裏面より