1. 明治時計株式会社の概要
横田栄三郎、大沢徳太郎、竹内六次郎によって創立された時計工場が大沢、竹内の両人が引退したので横田栄三郎より
松岡善兵衛が買取り、明治28年10月24日名古屋市前津小林町(今の中区東陽町)に工場を新設し、
資本金弐万六千円、職工55名でで明治時計製造合資会社を設立し新たに高木隣吾が加入して代表社員となった。
大正9年12月20日会社の存立期間が満了したので資本金を十万円として明治時計製造合資会社を設立し、高木隣吾が改めて代表社員となり、
同13年7月10日資本金を金二拾五万円に増加した。
同15年高木隣吾の死亡に依り成瀬初太郎が代表社員となった。
明治時代よりの対南支貿易が盛大になり昭和5年対東南亜貿易の開始によって工場が狭隘となったので、
昭和5年7月名古屋市南区明治町三丁目十二番地に工場を新築移転し同7年1月12日に本社も此処に移転した。
昭和15年10月20日、成瀬勝が代表社員となったが、同19年2月、成瀬初太郎、成瀬勝の両名が脱退し阿部広三郎が代表社員となった。
明治37,8年の日露戦争後、大正4年より同8年に至る第一次世界大戦並に第二次世界大戦中は信管製造に従事したが
昭和20年3月29日の空襲で工場は倉庫一棟を残して全焼、烏有に帰して終戦を迎えた。
しかし、終戦と同時に疎開工場であった工場で時計の製造を開始し戦災の打撃から僅か半年ほどで軌道に乗り、
戦後の製品を市場に送り出した。
愛知県丹羽郡古知野穴戸古知野工場では掛時計を製造。
愛知県津島市宝町津島工場では目覚時計を製造。
昭和22年西区桶之口町一丁目好生館病院の跡に名古屋工場を新設し、同年12月4日より創業を開始して津島工場を閉鎖した。
昭和23年4月17日、資本金を五百万円に増資し、同24年8月5日資本金壱千万円の明治時計株式会社を中区南大津通五丁目十一番地に
設立し明治時計製造合資会社を五百万円で買収し代表取締役に阿部広三郎が就任した。
昭和25年頃の月生産高は掛時計15,000個、目覚時計10,000個。
昭和26年11月、B目覚時計を完成。
昭和27年10月、小型掛時計の機械を完成
参考文献 : 名古屋時計業界沿革史(昭和28年6月刊、吉田浅一著)
工場の様子
昭和20後半〜30年頃のカタログより
|
昭和32年のカタログより
|