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(株)農村時計製作所

1. 農村時計製作所の概要

創立の経緯

発足時の農村時計の全景

シチズン時計株式会社「社史」 No.1 151頁より転載

戦争中に精工舎(俗称 太平町、クロック系関連工場)が東京第一陸軍造兵廠の指定軍需工場として「信管」の 製造を命じられて埼玉県南葛飾郡南桜井村に疎開工場「精工舎南桜井工場」を設立。 信管は勿論砲弾用で技術的にはカメラのレンズ・シャッターのタイマー技術が応用されたモノである。 この精工舎南桜井工場には陸軍(技術)の将校が常駐監督し、召集されなかった服部の工員・社員・店員の ほとんどが「南桜井」に派遣され、他には勤労動員された学生や地域の婦人を含めて「信管」製造を行っていた。

終戦を迎えると精工舎は直ちに南桜井工場を閉鎖し全従業員に退職金を支払って解散、工場は米軍の管理下に入った。 国策に沿った農村工業化計画の一環としてキリスト教の伝導に献身したプロテスタントの思想家 賀川豊彦氏らが 精工舎が撤退した後に残った広大な敷地、工場建物、設備をGHQから譲り受け、 農業団体の全国中央機関である全国農業会の主たる出資と借入金とによって 昭和21年3月に時計工場の「農村時計製作所」と技術者養成機関「農村時計技術講習所」が創設された。 こうして同年8月には試作品第一号3.5インチ目覚時計が誕生し、同12月より量産体制に入っている。 しかし、その後の同社の事業は以下の通り苦難の連続であった。

第一の受難 : 資金源の解散

量産開始後一年もたたない昭和22年8月にGHQの解散指示で全国農業会が解散することとなった。 これにより資金の源を断たれたため10月10日から30日までの20日間工場を閉鎖し従業員と講習生を合わせた半数近くを整理し、 役員も総辞職、全農会会長の柳川氏を取締役社長として再スタートした。

第二の受難 : 工場の明け渡し命令が下る

工場建物や機械類は連合軍から賠償物件として指定されているものを一時使用許可のもとに使っていたが、 昭和23年2月にこれらの明け渡し・使用禁止指令が下された。 これは事実上の解散命令に等しかったが、会社は存続させるとの基本線にたって協議を続けた結果、 機械・設備の継続使用は叶わず大部分が取り上げられたものの、工場については一部のみ使用が認められることとなった。 そのため、操業を一か月間停止して新規機械の導入に全力を注ぎ、 設備については同業他社の協力を得て、資金は通産省の好意で融資の道が開かれることとなり、 6月には一部の生産を開始、12月には不十分ながら全面操業にこぎつけた。

こうして再出発した同社は、なお設備の不備に苦労しながらも昭和23年12月には新設計の目覚時計を市場にだしている。 この際に製品マークも一新しようとそれまでの「NOSON:ノーソン」に代わる「RHYTHM:リズム」を採用している。

好・不況の波にもまれて遂には事業閉鎖の選択

その後、極度のインフレとなっていた日本経済の自立と安定とのため、GHQが実施した財政金融引き締め政策によって経済界は深刻な不況に陥り、 時計業界もメーカーの半数程度が淘汰される状況となった。 このような状況の中、農村時計は度重なる人員整理でしのぎながらなんとか事業を継続しており、 昭和25年には朝鮮動乱勃発による業界の立ち直り(特需ブーム)により業界には明るい兆しもでてきていたが、 これまでの膨大な借入金や赤字をかかえ、さらには物品税の滞納金や工場の賃借料も未払いとなっており、 特需ブームに乗ったとしても再建は遠いため、事業を閉鎖し別会社を作って再出発する道を選ぶこととなった。 こうして農村時計は、創立後わずか四年半で事業を停止することとなり、その事業は、従業員80名、 目覚時計月産六千個製造計画で昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承された。

どんな時計を作っていたか

時計工場では目覚し時計を主体として置き時計も製造したが(置き時計の現物は未確認)、 経営難のためからバリカンや地震計を製造したこともあった。 昭和24年になってからは他社がマネできない技術水準を目指して試作を進めていた掛時計「7吋スリゲルPastoral」「8吋中三針Summit」「12吋中三針トーマスSummit」の製造を開始し、 25年には時計性能コンクールで通産大臣賞を受賞するに至った。

※ 時計誌やメーカーカタログが少ない時代のため、現物確認主体となっています。 何か資料をお持ちの方は、提供いただきたくよろしくお願いします。

リズム時計工業株式会社

南桜井工場

情報提供:当時の事情をご存知のO氏、他

農村時計に関する文献の紹介

農村時計について詳しくは「ある時計工場の歴史 賀川豊彦と農村時計」という本があるそうです。 まだ読んでいないので、是非読みたいと思います!

「ある時計工場の歴史 賀川豊彦と農村時計」

  • 発行日 1991年9月29日
  • 発行元 庄和高校地理歴史部 顧問 木原三彦 遠藤光司
  • 244ページ

日本時計学会「時計」昭和24年より

「時計」昭和24年7月号表紙

NOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythm
「時計」昭和24年12月号より広告

表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。
Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタン、シンガポール、メキシコ、バンコック等から 註文があり毎月15,000個の輸出を目標に生産を進めている。
株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された一貫作業工場であり・・・ 尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共其の儘同社が引継いだものであり・・・ 今後の進展を注目されている。

農村時計
本社  埼玉県北葛飾郡南櫻井村
営業所 東京都港区赤坂葵町3

従来の「NOSON : ノーソン」に替わる新設計の目覚時計「Rhythm : リズム」は設備の不備等の困難を乗り越え 昭和23年12月に発売された。この二年後にリズム時計工業株式会社が誕生している。

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