1. 農村時計製作所の概要
戦争中に精工舎(俗称 太平町、クロック系関連工場)が東京第一陸軍造兵廠の指定軍需工場として「信管」の
製造を命じられて埼玉県南葛飾郡南桜井村に疎開工場「精工舎南桜井工場」を設立。
信管は勿論砲弾用で技術的にはカメラのレンズ・シャッターのタイマー技術が応用されたモノである。
この精工舎南桜井工場には陸軍(技術)の将校が常駐監督し、召集されなかった服部の工員・社員・店員の
ほとんどが「南桜井」に派遣され、他には勤労動員された学生や地域の婦人を含めて「信管」製造を行っていた。
終戦を迎えると精工舎は直ちに南桜井工場を閉鎖し全従業員に退職金を支払って解散。
工場は米軍の管理下に入った。
精工舎が撤退した後に残った広大な敷地、工場建物、設備は、
敗戦後、キリスト教の伝導に献身したプロテスタントの思想家 賀川豊彦氏らがGHQから譲り受け、
昭和21年から時計工場の(株)農村時計製作所と技術者養成機関「農村時計技術講習所」を併設した。
時計工場では目覚し時計の他に置き時計、掛時計「PASTORAL」、バリカンなどを製造し、
25年には時計性能コンクールで通産大臣賞を受賞した。
しかし、資金源の機関の解体や連合軍からの工場・設備の明渡し命令が下されるなどで、事業は苦難の連続であった。 膨大な借入金と赤字を抱え、真の再建の道は険しく、その解決策として事業を閉鎖し、 別会社を作って再出発する道を選ぶこととなった。 農村時計は、創立四年半で事業を停止し、その事業は、従業員80名、 目覚時計月産六千個製造計画で昭和25年11月3日に発足した新会社「リズム時計工業株式会社」に継承された。
![]() |
情報提供:当時の事情をご存知のO氏、他
農村時計に関する文献の紹介
農村時計について詳しくは「ある時計工場の歴史 賀川豊彦と農村時計」という本があるそうです。 まだ読んでいないので、是非読みたいと思います!
「ある時計工場の歴史 賀川豊彦と農村時計」
- 発行日 1991年9月29日
- 発行元 庄和高校地理歴史部 顧問 木原三彦 遠藤光司
- 244ページ
日本時計学会「時計」昭和24年より
![]() 「時計」昭和24年7月号表紙 |
![]()
NOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythm |
表紙写真はNOSON 3 1/2吋目覚時計Rhythmを示す。
Rhythmは日本業界最高級品として内地は勿論、世界各地---特に印度パキスタン、シンガポール、メキシコ、バンコック等から
註文があり毎月15,000個の輸出を目標に生産を進めている。
株式会社農村時計製作所は終戦後興った時計工場としては最も整備された一貫作業工場であり・・・
尤もこれは戦時中服部精工舎南櫻井工場として創られたものを技術者設備共其の儘同社が引継いだものであり・・・
今後の進展を注目されている。
- 農村時計
- 本社 埼玉県北葛飾郡南櫻井村
- 営業所 東京都港区赤坂葵町3
従来の「NOSON : ノーソン」に替わる新設計の目覚時計「Rhythm : リズム」は設備の不備等の困難を乗り越え 昭和23年12月に発売された。この二年後にリズム時計工業株式会社が誕生している。
PR
本記事はこの頁だけです。