1. 鶴巻時計店英工舎の概要
新潟県長岡市出身の鶴巻栄松氏が東京上野に上京し、大正5年に株式会社鶴巻時計店を設立。資本金は200万円。
設立当時の鶴巻時計店は卸を業としていたが、大正8年に時計側の製造を開始し、
同13年4月に王子滝野川(北区滝野川)に株式会社鶴巻時計店英工舎を設立、T・S・U印の掛時計の製造を開始した。
「英工舎」の正式名称は株式会社鶴巻時計店英工舎で、鶴巻時計店の時計製造部門が英工舎ということである。
昭和2年から目覚・置時計の製造を開始。
更に昭和10年には腕時計「センター」「ニューエイコー」などの生産に着手し同13年9月に市場進出している。
昭和10年という年は、シチズンで八型腕時計の試作が完成、村松時計製作所も九型、八型の腕時計を完成、
東洋時計もまた腕時計の製造に乗り出し、セイコー、シチズン、英工舎、村松、東洋と腕時計メーカーが並んだ年である。
戦時中は、他の時計メーカーと同様に軍需精密機械の製造が中心となり、滝野川の工場は北区赤羽、桐生(群馬県山田郡桐生村)、秩父(秩父郡高篠村山田地区)、取手に分散疎開。
疎開先の桐生では「株式会社 桐生英工舎」にて目玉の動くふくろう型掛時計「ハロー時計:HALLO CLOCK(実物の文字板の綴り通り)」
などの変り種も製造していた。
戦後は疎開工場で持っていた機械を利用して「プリマ系」の腕時計を完成させ早々と腕時計生産を軌道に乗せた。 昭和22年の各工場の生産品目は以下のとおりである。
- 鴻巣工場:目覚、置時計
- 北本宿:休止
- 秩父:腕時計
- 桐生:掛時計
- 朝霞:伸銅鋳物
- 赤羽:自動秤
- 滝野川本社:置時計ケース伸銅
しかし、この頃から翳りがでてきて、 昭和24年には英工舎保険組合が解散、昭和25年の業界整理期に「その姿を消した」と伝えられているが、 実際のところ、この時点で時計事業を完全にやめてしまったわけではないようだ。
英工舎が昭和25年以降も存続していた証は、例えば、昭和27年の日産技術舎「モーターエージ」にて、 「英工舎の自動車用計器」と銘打った広告である。 広告記載の情報からは、赤羽工場が本社で、工場所在地として東京・秩父・桐生・鴻巣とあり、 製作品目は、掛置時計各種、電気時計各種、腕時計各種、写真機各部品、計測器各種、精密治工具とある。 クロックならまだしも、ウオッチまで生産を継続していたことはにわかには信じがたいが、時計メーカーとしての活動が確認できる。 なお、自動車計器とは昭和26年に日産自動車から依頼されたニッサン380型用メーターやダットサンコンビネーション・ゲージである。 当時、自動車用メーターをほぼ独占製造していた東洋時計が昭和24年にストライキで操業停止に陥り、 国内自動車メーカは計器が入手できず難儀するようになっていた。 この影響で日産が英工舎に接触し、英工舎が日産車向けのメーターを製造するに至ったと考えられる。
英工舎の製造拠点のその後
桐生は、昭和24年、英工舎の労働組合副委員長を中心に桐生に残った人達で(株)桐生英工舎として再スタート。 昭和26年に精密小型モーターの製造に転換。
秩父は、終戦までは時計信管、終戦後は腕時計を製造し、多数の小型自動旋など優秀な設備と経験のある技術者が存在したため、 之に供給する資材(資金)確保のためキヤノンの下請けを申し出た。 昭和24年8月にキヤノンが英工舎秩父工場を視察し距離計座坂、その他小物部品数点の発注を決定、工場の機械設備が再び稼動することとなった。 昭和29年には(株)秩父英工舎を設立し昭和31年には(株)秩父英工舎の総ての株式をキヤノン(株)が保有、 (株)鶴巻時計店英工舎・秩父工場より全従業員を移籍して時計とは無関係になったことが、 キヤノン電子株式会社の沿革から読取れる。
赤羽は、昭和31年、朝鮮動乱の特需景気の後の落込みで経営が危うくなった英工舎赤羽工場を日産自動車が買収、 全額出資のもと、関東精器を設立。英工舎従業員を新規採用する形で引受たと、 カルソニックカンセイと日産の社史に記載がある。