TIMEKEEPERのバナー

戦前戦後の時計生産数

1. 戦前戦後の時計生産数の推移

戦前戦後生産数量

昭和26年 日本時計産業振興展より

2. 戦前の生産状況

我国時計生産の絶頂は昭和11年から昭和13年頃で、年産三百万個を越え、その60%強は服部並びにその同系の第二精工舎で占めていた。 その後、昭和16年には百数十万個程度の生産を示していたが、事変と共に資材面からの制約(註1)が始まり、 更に企業整備が行われ、戦時中は約八割までは信管製造工場に転換させられたため、製品は僅か九万四千個程度となり、乏しい製品も軍需方面に廻り、 民間は厳しい時計飢餓となった。

(註1) 銅使用制限規則(昭和13年8月公布)
置・目覚時計は全面的製造禁止、掛・置・電気時計はケース・文字板の製造禁止、その他、金・白金・鉛・亜鉛・錫・ニッケル使用禁止又は制限等。

3. 戦後の設備状況

戦争中、時計工業は大部分が信管製造等に転換したことから、中間賠償に指定され一時は悲観的となったが、 昭和21年10月に至り六社十五工場が削除され、原則的に時計工場は賠償から除外される旨、次のように渉外局から発表された。

「 之は現リストにある工場の状態を広く検討した結果で、特に時計工業の場合は若干工場が極東委員会の標準に合致しないものがあり、(中略) 削除三十九工場のうち十五工場は日本時計工業の90%を占め、戦時生産を目的として特に建設されたものではない。 日本は戦前極東向けに相当量の時計を輸出していたが、之は主に右十五工場の生産によるものであった。 」

終戦後、信管製造工場は時計工場に復元を開始し、その他にも時計工場に転換するものがあったので、生産設備だけはすぐに戦前の状態に接近した。 しかし、中・大型時計は製作技術も比較的容易で設備も亦容易なため、復旧は速やかであったが、小型部門は技術的にも高度の熟練を要し、 一流メーカーであった第二精工舎等大工場が戦災により復旧も遅れて居り相当劣勢な状況であった。

又、中・大型部門に就いても戦前と比較すれば質的に低下し、輸出用としても遺憾の点が多かった。 戦災被害は全体の七割程度であったが、復旧は一般に良好で、月産能力も昭和21年度217,600個、22年度270,000個以上と増加した。 之ら設備機械の中には、相当磨耗破損したものもあり、又海外に比し旧式のものが多かった。

4. 戦後の生産状況

終戦直後は月産7,000個足らず、戦前の三十五分の一であった。 昭和21年も一月〜三月の三ヶ月間に58,000個、四月32,000個の少量に過ぎず、六・七・八月と急増し、九月99,300個となったが、 生産計画に対する実績は僅かに三分の一であった。 以後、昭和22年に入り、毎月着々と増加の一途を辿った。

各社別生産実績

昭和22年8月

参考資料:調査月報 昭和23年3月 臨時号
輸出産業資料 時計工業 日本勧業銀行調査部

PR


本記事はこの頁だけです。