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ガラス時計の文献

1. 精工舎の硝子枠を独占した八重田研磨工場

大正から昭和初期の国産メーカーのカタログには夥しい種類の硝子時計が並んでいます。 ガラス時計の流行は、戦後のプラスチック枠が流行する以前に日本独自に花開いた文化であり、 江戸切子をルーツとした硝子職人の手によるものでした。

平物研磨の八重田常吉

八重田常吉(明治6年〜昭和27年)

ガラスの時計枠を加工して精工舎に収め、立志伝中の人物となった

八重田常吉は明治6年、長野の飯山で生まれた。明治23年、兄を頼って上京し岩崎硝子で修行を積み、切子共同事業に参加して一本立ちした後に、 八重田硝子研磨工場として本格的に独立し、八重田工場は平物研磨の草分けの一社となった。

明治の中頃になるとつけペンのインク壺が家庭の必需品となって、壺の平面研磨が平物加工の重要な位置を占めることになる。 さらに時計が国産化されると、懐中時計、置時計の風防、後に置時計の本体で美しく研磨された時計枠が大量に常吉のところで加工され、 やがて時計枠の八重田として他の業者を凌駕するまでになった。

崇敬の研磨師・横川徹雄

横川徹雄

大正6年に長野の上松より上京、八重田常吉の弟子となって活躍

大正6年の春、十三歳の横川徹雄は長野の地元の口入れ屋の紹介で八重田硝子研磨工場に入社する。 小僧時代に平面研磨のすべての技術を取得、二十歳前にして「徹雄に加工させればどんな仕事も間尺が合う」といわせるほどの腕前になる。

大正12年の大震災で常吉の加工場は焼けてしまったが、今までの実績が功を奏して復興も早く、この頃からガラスの時計が売れ始め、置時計のガラス枠の需要が拡大した。 当時はずしりと重い、いかにも置時計らしいガラス製がよく売れた。ガラスの時計枠は機械部を包む外装であるが、 当時のプレスガラスの技術は今日と比べれば金型や成型技術も劣り、ガラス表面の凹んだ歪や、型の合わせ目から出たバリなどを削ったり平らにした後、研磨艶出しするのである。 当時、時計枠やインク壺のプレスものを製造していた硝子工場としては、深川にあった初見硝子、工藤硝子、腐蝕加工の清林堂などの各工場が知られている。

なかでも数がよく出たのが、単純な角(各文鎮と呼ばれた)と丸という形で、この二種類は他の目先を変えたデザインとは違い飽きられず、毎月同じように数が流れた。 角の場合サイコロ上のすべての面を磨き、かどを落として完成させるが、最後の工程の木盤磨きと艶出しは小僧に委ねるものの、 一人前の職人になれば一日百七十個から二百個を摺り上げた。 徹雄も人には負けまい、親方に褒められたい一心で職人たちと数を争った。 出来上がった硝子枠を職人が錦糸町の精工舎まで配達に行ったが、昭和初めの町工場にはトラックなどなく、リヤカーや大八車に大きな木箱を載せ、 毎日仕上げた品を満載して午前中に届けるのが日課であった。

八重田研磨工場から三ツ目通りを抜けると間もなく菊川橋に出るが、その橋を渡るのが運搬人の苦労であった。 その頃の聞く菊川橋は中央が勾配になった木橋で、慣れないうちはズルズル後戻りをしてしまった。 四ツ目通りから錦糸町の駅前に出て総武線の高架下を通り、一時間がかりで精工舎に着くのである。

八重田工場の時計ガラスは、初めのうちはあてがいぶちの下請けであったが、やがて常吉がデザインを考え、次から次へ新型を興し、初見硝子などの製造屋で素地を作らせて加工、 昭和10年頃の全盛時には精工舎の時計枠は八重田の独占で、他の業者の入り込む余地がなかったという。

昭和初期の精工舎ガラス時計

参考文献: 「江戸切子」山口勝旦著

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